ルイ・ヴィトンと無印良品、レトルトカレーの共通点

日本企業が海外で勝つための唯一の方法は、高くても売れる「ラグジュアリー戦略」を取ること。豊富なケーススタディを通して解説する。
■日本の企業が生き残るための唯一の戦略
海外に進出する日本企業が目指すべき道筋は何か。結論から言えば、日本らしさを生かして「高くても売れる」ブランドを実現するラグジュアリー戦略しかない。
といっても、必ずしもラグジュアリーブランドである必要はない。製品がラグジュアリーであることとラグジュアリー戦略とは必ずしも一致しない。仮にラグジュアリーではなくても、ラグジュアリー戦略を採用することは十分に可能である。
だが、日本の現実に目を向けると、その反対路線を邁進していると言わざるをえない。価格を下げることしか頭になく、価値づくりから背を向け、長くコストダウンの消耗戦から抜け出せないでいる。工場を中国の沿岸部に移転し、人件費が上がると内陸奥地にシフトして、そこでまたコストが上がると今度はベトナム、カンボジアへと目を向ける。スリランカを経てアフリカまで行ったらもうその先はないのに、いったいどこまで行く気なのか。
価値を向上させることは難しい。だが、価値創造を怠りコストダウンを図ると、いつかコストがすべてとなり、せっかくの価値も目減りする。つまり、ブランドも企業も疲弊するということだ。メリットは何もない。
こうした消耗戦を繰り広げていると、いずれ日本企業は表舞台から追いやられてしまうだろう。私は昨年、タタ財閥グループ傘下のインド企業の品質管理を審査したが、そこでは、「見習うべきは中国のコスト、日本の品質」を理念に掲げ、日本企業でこれだけ実直に品質管理をやっている企業が果たしてあるかと思えるほど懸命に理念を実践に移していた。この光景を目にしたとき、私はただただ感心し、そして恐ろしくなったものだ。いまはまだ途上でも、この先5年、10年たって、「中国のコストと日本の品質」を兼ね備えたインド企業が台頭したら、日本企業がどうなるか。それは火を見るよりも明らかだ。
日本企業がいまだに「安い製品をたくさん作る」ことに明け暮れ、利益率の低い商売にどっぷりと浸かっているのは、一つには売り上げをつくらなければならないという売り上げ至上主義にとらわれているからだろう。さらには、高い製品を少数売るという経験がないため、従来型の商売から足を洗ってうまくいく自信がない。成功できるイメージを描けない。これが大きい。
腕時計を例に挙げよう。100円ショップで販売する時計を1万個作るのと、100万円の時計を作って一人に売るのとでは売り上げは同じだ。しかし、100万円の時計を売った経験がない人は、どうしても100円の時計を1万個売る方向に走ろうとする。
100万円の時計を売っていくには、既存の顧客と異なる顧客を対象にしなければならない。つまりイノベーションだ。だが、イノベーションとは、昨日までの顧客を失うことを意味する。従来のビジネスモデルを壊し、そのときの顧客を思い切って切り離し、新たな客を掘り起こさなければならない。それだけの潔い決断ができないのだ。
しかし、どう考えても日本企業は100万円を一人に売るラグジュアリー戦略しか生きる道がないはずだ。日本で製品を作ればコストは高くならざるをえない。「コストを抑えられるから中国に製造拠点を移す」というのは一つの生き方には違いないが、この消耗戦に耐えうるのは業界1位や2位の企業であり、3位以下には通用しない。高くても売れる商品、高価でも熱烈なファンがいる商品を作り、販売する仕組みを築き上げていく以外、活路はないのである。
1854年に創業したルイ・ヴィトンを例に考えてみよう。
マーケティングの先生が書いたブランド論の教科書では、冒頭に「ルイ・ヴィトンやシャネルだけがブランドじゃない」「コカ・コーラもマクドナルドも、トヨタもソニーもブランドだ」といった記述が見られる。だが、その後、話は二度とルイ・ヴィトンには戻ってこない。最初に触れられるだけだ。
しかし、これはおかしな話だ。一般の人に「あなた、ブランドは好きですか。ブランド品を持っていますか」と尋ねてみよう。みな間違いなくルイ・ヴィトンやシャネル、エルメスのことを指していると考えるはずだ。ブランドといえば誰もがルイ・ヴィトンをイメージするのに、マーケティングの先生が枕詞にしか使わないのは大いなる間違いである。
ルイ・ヴィトンのこれまでの道のりには日本企業が参考にすべき点が多々ある。1970年代までは、店舗はパリとニースにしかなかったが、自分たちが営んできた地場伝統産業が東洋の島国で受けることを自覚すると、78年に東京と大阪に出店し、その後大成長を遂げた。そして創業以来、一度も値引きやセールをしたことがない。
これは決して特別なケースではない。P&Gが巨大化する過程で体系化されたものがマス・マーケティングだとすれば、ルイ・ヴィトンやエルメスといったパリやミラノの街角で生まれた小さな地場の伝統的なブランドが、世界的なラグジュアリーブランドに成長する過程で踏んでいった戦略を体系化したものがラグジュアリー戦略だ。他の企業にも応用できる戦略である。
■成功に必要な条件は神話と登場感、パブリシティ
ラグジュアリー戦略を採用し、高くても売れる商品を作っていくうえでは、ストーリー、もっと大げさにいえば神話が不可欠だ。
ルイ・ヴィトンのトランクにまつわるエピソードを耳にしたことはないだろうか。座礁し海に沈んだタイタニック号を引き揚げたら、ルイ・ヴィトンのトランクが出てきて、中を開けたら一切水が入っていなかった。どう考えても信じられない話だが、ルイ・ヴィトンは否定はしていない。いまとなっては誰も確かめられないし、真実かどうかは永遠の謎。いわば「言ったもの勝ち」「言われたもの勝ち」なのだ。
この場合、大事なのはことの真偽よりも、人に「そうかもしれない」と思わせる話が流布することだ。ポルシェには「天才フェルディナント・ポルシェ博士が心血注いでつくった車」、フェラーリには「エンツォ・フェラーリ創業者が熱い想いを込めてつくった」というストーリーがあるように、ラグジュアリー戦略にはファンを魅了する神話が欠かせない。
悲しいかな、ラグジュアリーブランドを目指したレクサスにはそういった突き抜けたストーリーや神話がない。私がもしレクサスのマネジャーだったら、まずは1店舗、旗艦店を銀座か表参道につくっただろう。当然、長蛇の列ができニュースになる。なかなか順番が来ないというクレームがくれば、「申し訳ございません。1店舗しかございませんので」と言えばいい。満を持して2店舗目を出し、そこから店を増やしていく。
ところが、レクサスは名古屋と国道16号線などに一気に150もの店を出店した。製品自体も、ちょっと前までは「ソアラ」だった車を、歌舞伎の襲名よろしく「ソアラ改めレクサス」としただけで、エンブレムを隠すとどちらがレクサスなのかわからない。
要するに、“登場感”がないのである。「あ、こういう商品が出たんだ」というサプライズがないブランドは論外だ。新鮮な驚きやストーリーが欠けていては、どんなに品質が良い車であってもプレミアムカーの域を脱することは難しい。
■中国でシャネルに並ぶ高級ブランドに育ったラコステ
その逆をいったのがラコステだ。フランス人のテニスプレーヤー、ルネ・ラコステが創設したワニのマークのブランドは、日本では80年代に一世を風靡したが、現在はポロシャツのブランド程度の認知度しかない。ところが、「タイム」誌(2007年10月)が報じた中国でのラグジュアリーブランドのアンケート調査結果では、シャネルやロレックスに次いでラコステがベスト3に入ったのだ。
中国でのラコステの快進撃を支えているのが、ストーリー仕立てのパブリシティだ。00年代の10年間、ラコステのデザイナーを務めた若手のクリストフ・ルメールがラコステのファッションを大きく向上させたが、その際に「貴族のスポーツであるテニスブランド」というストーリーを訴求した。日本ではテニスの価値は下がっているが、中国では貴族やセレブに愛されるステータスの高いスポーツとして受け止められている。ラコステは、このイメージをうまく使ったのだ。
新設された上海テニストーナメントの公式スポンサーになるとともに、ラコステが参加するニューヨークコレクションにアジア圏の華人系ファッションエディターを招待した。彼らはみなルメールの冴え渡ったファッションを前に、「ラコステブランドはすごい」と書き立てた。CMではなくパブリシティを重視した戦略の勝利である。
先日、フランスのリヨンとパリで講演したときにこの話をしたら、フランス人は誰もが「信じられない」「ラコステはラグジュアリーじゃない」と反応した。日本やヨーロッパにおける既存イメージを一切踏まえず、テニスとファッションを結びつけ、一つのストーリーを引っさげて中国に進出し、信じられないような大成功をおさめたラコステ。これこそ、ラグジュアリー戦略そのものではないか。
ラグジュアリー戦略を推し進めていくうえでもう一つ欠かせないのが、国籍を明確に打ち出すことだ。国籍のないラグジュアリーなどない。日本らしさを背負うキーワードとしては、禅の精神やわび・さびの世界、武士道や礼節、「カワイイ」といったキーワードが挙げられるだろう。
禅の精神で成功しているのが、フランスのMUJI(無印良品)だ。「わけあって安い」「無駄を削ぎ落とす」というコンセプトが禅のイメージと重なり、関税などによりフランスでは日本よりもかなり高い価格で販売されているにもかかわらずインテリ層に熱烈に支持されている。
もっとも、それは、もともと禅が「ZEN」としてフランスに普及しているという土壌があってのことである。日本人は誰もそう思っていないのに、フランス人はいわば勝手に無印良品に「ZEN」の精神を感じ、MUJIは高級感のあるブランドとして市場に受け容れられたのだ。
私は日本らしさを訴求するには商品を通して「卓越した品質」や「品質への求道」を感じさせるのが一番だと考えている。化粧品が好例だ。
いまアジアでは資生堂をはじめとする日本ブランドが品質の高さで高い評価を受けている。現地では、わざわざ日本語のパッケージのまま、直輸入であることをアピールして販売しているが、それは日本製品イコール高品質というイメージが定着し、ブランドになっているからだ。そこに「すべすべ色白肌の日本女性への憧れ」も加わる。思えば、ルイ・ヴィトンやエルメスもそうだった。高品質とその国の薫りはラグジュアリー戦略の強い武器だ。
インドで普及している日本のレトルトカレーも同様のケースといえよう。経済成長著しいインドでは共働き夫婦が増え、以前のようにスパイスを何十種類も使ってカレーを煮込む家庭が減っている。そこにうまく浸透したのが日本のレトルトカレーだ。価格としては割高だが、作る手間が省けて、そのうえ味もいい。「インド人もびっくり」する日本的創意工夫に満ち、利便性の高いレトルトカレーがカレーの本場であるインドで評価されているという現実に、私は日本製品の限りない可能性を感じずにはいられない。
日本の企業、とりわけ地場伝統産業のこだわりのモノづくりには世界に評価される素地がある。むしろ、失うものがないほど衰退している地場伝統産業こそ、ラグジュアリー戦略による再生の可能性は高いのではないか。パリの老舗にすぎなかったルイ・ヴィトンにできたことが日本の企業にできないはずがない。

タイトルとURLをコピーしました