龍馬の刀かもしれない-。山口県下関市の元会社経営、石森正義氏(82)は、幕末の志士、坂本龍馬ゆかりの一家から2振りの日本刀を譲り受けた。一緒に保管してきた鐔(つば)(鍔)と文献などから、龍馬自身の刀と信じ、調べる方法を探している。(大森貴弘)
日本刀は刀と脇差しで、長府藩出身の海軍少将、伊藤常作が所持していた。常作は龍馬が創設した海援隊に所属し、維新後に海軍入りした。
石森氏は平成11年、伊藤家から刀を譲り受けた。
刀の箱を改めると、富士山と龍をあしらった「南蛮鐔」が出てきた。調べると、「坂本龍馬大辞典」に、龍馬が同じ柄の鐔を注文し、受け取ったとの記述があった。
石森氏は同じ頃、龍馬の刀に関して、神戸松蔭女子学院大学(神戸市灘区)の講師、真鍋昌生氏(63)らの説を知った。龍馬が、親友で長府藩士の三吉慎蔵に、「相州正宗」と「備前長船」の銘の愛刀を渡したというものだった。
龍馬から慎蔵、さらに常作へと、刀が渡ったのではないか-。石森氏はこう推測した。慎蔵は常作をかわいがり、海援隊に推薦したほどだったからだ。
石森氏は25年、日本美術刀剣保存協会に鑑定を依頼した。脇差しは傷みが激しく鑑定できなかったが、本差しは備前長船とされた。石森氏は「150年間眠っていた龍馬の刀だと、信じている」と語った。
ただ、伊藤家から一時、刀の寄託を受けていた下関市立歴史博物館の担当者は「龍馬の刀という記録はなく、何とも言えない。当館としては、常作の刀として寄託を受けた」と距離を置く。
高知県立坂本龍馬記念館の前田由紀枝・学芸課長によると、龍馬は大の刀好きで、手紙などには、刀に触れた記述も多いという。
龍馬本人や、関係者が書いた手紙などから、「龍馬の刀」は少なくとも15本はあったとみられる。そのうち、龍馬記念館や京都国立博物館(京都市)などで管理されるのは5本で、残りは所在不明だ。
「龍馬のもの」と伝わる日本刀はほかにもあるが、断定するには、刀の製作年代を調べた上で、手紙などの記述と合致するかなど、詳細な調査が必要となる。前田氏は「言い伝えとしては言えるが、刀だけで、龍馬のものと確定するのは難しいと思う」と述べた。
平成28年、龍馬が暗殺された際に持っていたと伝わる京都国立博物館所蔵の刀が、資料や科学的な調査で実物と判明したことが分かった。下関の「龍馬の刀」の真贋(しんがん)が分かる日も、いずれ来るかもしれない。