中国が猛スピードで「キャッシュレス社会」に変貌しつつある。買い物や公共料金など、日常の支払いのほとんどが銀行カードと連動するスマートフォン1台で事足りる上、スマホがなくとも「顔」の認証だけで支払い可能なサービスも登場した。こうしたモバイル決済の総額は1年で5倍も増えた。一方で代金決済を通じ、さまざまな個人情報が金融サービス会社や中国当局に“ダダ漏れ”するリスクも指摘され始めた。(杭州 河崎真澄)
「タッチパネルで食べ物を注文し、自分の顔をカメラに向け、携帯電話の番号を入力すればOKです」
モバイル決済の“仕掛け人”ともいえるIT(情報技術)大手アリババ集団の本拠地、浙江省杭州市。金融サービス部門の王安娜さんは、市内の米ケンタッキー・フライド・チキン(KFC)の店舗を案内し、9月初めに始まったばかりの顔認証による代金決済サービスを実演してみせた。KFCで世界初の試みだ。
「目と口の位置や形、鼻の高さなど、生体認証技術で判定するため、厚化粧したりカツラをかぶっていたりしても大丈夫。スマホを自宅に忘れてきても、食事できますよ」と笑った。
アリババのモバイル金融サービス「支付宝(アリペイ)」と連動し、自分の銀行口座から代金が引き落とされる。アリババでは杭州企業と提携し、ホテルのフロントやスーパーのレジなど、顔認証の決済を急ピッチで普及させる計画だ。杭州市は「キャッシュレス都市宣言」も行っている。
顔認証は始まったばかりだが、アリババが2004年に始めた「アリペイ」や広東省深センのテンセントが13年に始めた「ウィーチャット・ペイ」など、従来のモバイル決済の規模は16年、前年比で5倍の約59兆元(約1000兆円)にも達した。世界のモバイル決済規模の約50%といい、日米欧を引き離している。
屋台のような小さな店舗でも、専用の2次元バーコード「QRコード」をレジに貼り、顧客のスマホに読み取ってもらうことで代金が受け取れるしくみだ。個人と個人のお金のやりとりや、大人数の食事の“割り勘”も簡単。杭州のKFCで顔認証でデザートを注文していた女子大学生の範君香さん(21)は、「普段は現金を持ち歩かない。モバイル決済なしの生活はもう考えられない」と話した。
急激に中国でモバイル決済が進んだのは、固定電話よりも早くスマホが7億人以上に普及し、インターネットにアクセスできる通信インフラが整った上、「現金にはニセ札もよく交じるため」(市場関係者)という。
そもそも信用重視のクレジットカードが浸透しておらず、支払いと同時に口座から引き落とされるデビットカード型の金融サービスに、アリババなどが目を付けて成功させた形だ。
他方で、便利さと引き換えになるリスクもある。
決済のたびに、どこで何をいくらで買ったか、支払い情報が個人の銀行口座や住所、電話番号などとともに金融サービス会社に全て蓄積されていく。職業や収入、残高不足などの情報もすぐ分かり、「信用力が著しく下がったユーザーや家族は、支払いが全面停止されることもある」(テンセントの関係者)という。
中国では携帯電話の使用やネットアクセス、さらには航空便や高速鉄道、長距離バスに乗ったり、ホテルに宿泊したりするのも身分証やパスポートによる「実名登録」が必要。支払いもモバイル決済となれば、個人の行動は全て監視が可能になる。顔認証は防犯カメラとも連動ができる。
アリババは個人情報の漏洩に厳しい監視体制を敷いているというが、治安維持を理由に中国当局から情報提供を求められれば、拒否できない立場だ。「キャッシュレス社会」への変貌を急がせたのは、むしろ中国当局の側かもしれない。