「棒ラーメン」をご存じだろうか? 福岡県に本社を構える株式会社マルタイが製造する即席麺で、1959年に誕生して以来62年もの長きにわたって愛され続けている。正式名称は「マルタイラーメン」だが、棒のようにまっすぐな麺にちなんで棒ラーメンの愛称で親しまれている。 【写真】これがマルタイラーメンだ! 九州民にはおなじみ。全国的にもファンが多く、コンパクトで調理が簡単なことから登山やキャンプなどのアウトドアのお供としても人気だ。2013年からは海外輸出にも注力し、中国や台湾、香港などでも売り上げを伸ばしている。棒ラーメンの2020年度売上実績は31億2900万。前年の2019年度売上実績は26億9400万で、前年度比16.1%の売上増となった。
棒ラーメンはいったいどのように誕生し、長い間競争の激しい即席麺業界を生き抜いてきたのだろうか? その歴史とヒットの理由を追った。 ■戦後の焼け野原と極度の食糧難から始まった マルタイの歴史は戦後まもない福岡市高砂町36番町(現・福岡市中央区高砂)で始まった。1945年6月の福岡大空襲で市中心部は焼け野原となっており、誰もが空腹に困っていた時代、創業者の藤田泰一郎氏は家族で製粉・製麺業に乗り出す。
何でも粉にする高速万能粉砕機を手に入れ、小麦やとうもろこし、芋、干した海藻と、砕けるものは片っ端から粉にしたという。粉があれば水を入れて練って団子やうどんを作れるため、極度の食糧難の中ではありがたい機械だった。 かけそばが一杯15円の時代。玉うどんを販売して人気になるが、生麺なので保存性が低い。「もう少し日持ちのする商品を」と目を付けたのが中華麺だった。そこでちゃんぽんや皿うどんの麺を作る長崎の製麺所で製法を学び、試作を重ねた末に中華麺を製品化した。
当時福岡では中華麺の認知度が低かったので、オート三輪で筑豊、北九州、大分、佐賀、佐世保、熊本と北九州一帯を走り回り、いろんな店に飛び込み実演販売をする。店頭で中華麺を使って焼きそばやラーメンを作ってみせると客の反応は良く、じわじわと取扱店を伸ばしていった。 1958年になると、日清食品が一袋(一食)35円の「チキンラーメン」を発売した。これが日本のインスタントラーメン第一号だった。 同時期に、藤田氏も即席麺の研究を行っていた。「食堂で食べるラーメンの味を家庭で食べられるようにする。実現すれば全国の家庭がすばらしい食堂になる」と夢見て。
藤田氏は玉うどんや中華麺の製造経験から「油で揚げていない生麺のおいしさ」を追求することにした。日々試作に打ち込み、夜を徹して作業に没頭する日々が続いた。 こうしてチキンラーメン誕生の翌年の1959年、「マルタイラーメン」が発売開始された。チキンラーメンが油で揚げたちぢれ麺であるのに対し、「マルタイラーメン」はノンフライ・ノンスチームで乾燥させたまっすぐな麺が特徴的な「棒ラーメン」だった。 結果は爆発的大ヒット。食品問屋が次々と仕入れに来て、工場前には順番待ちの行列ができるほどだった。生産が追い付かず、時には問屋が袋詰めを手伝っていたという。わずか5カ月後の翌1960年には工場を増設した。
ラジオCMで流れた「煮込み3分、味一流! 食べなきゃ損だよマルタイラーメン!」のフレーズは多くの人の耳に残ることになる。 1959年にエースコックが北京ラーメン、1960年に明星食品の明星味付ラーメンが販売され、即席麺は一大ブームとなった。 さらに同じ頃、“5秒で100%のコーヒー”の謳い文句で森永製菓がインスタントコーヒーを発売し、サントリー(当時は洋酒の寿屋)が缶入りのハイボールを発売するなど、食品業界全体がインスタントブームだった。1960年~1961年にかけて「インスタント」は最大の流行語と言われた。
■激化する“ラーメン戦争”で疲弊 1971年には、日清がカップヌードルを発売開始。お湯を注ぐだけで食べられる画期的なカップラーメンの時代の幕開けで、“第二のラーメン革命”と言われた。 カップ麺は容器や具材などで値段が上がるため、「よい商品を安く」の会社方針を掲げていたマルタイはカップ麺への参入を静観。消費者ニーズの高まりを見て1975年にカップ麺を発売するが、4年の出遅れは競争の激しいラーメン業界では致命的だった。
さらにオイルショックによる狂乱物価や高度経済成長期の終焉と、成長していくエネルギーに満ちていた日本経済が大きな曲がり角に差し掛かっていた。マルタイも1981年に大きな未処理損失を計上することとなった。元々薄利多売の事業で競合が多いから原価ぎりぎりでやっていた上に、やむことのない激化する“ラーメン戦争”で疲弊していた。 その後、福岡銀行出身の新社長に迎え経営の立て直しを計った。生産ラインの見直しで徹底的に経費を削減。一方で品質向上、ラインの合理化、生産能力向上に関わる大幅な設備投資も行い、1985年1月には無借金経営に。さらに設備投資で飛躍的に高まった工場の生産能力が功を奏して、売上が倍増した。
2000年代になると、「ロングセラー商品、棒ラーメンの復権をかける。豚骨ラーメン発祥の九州市場を一層強固にする」と掲げ、マルタイは高級路線と九州のご当地シリーズ2つのラインを展開した。 高級路線の「稗田の博多豚骨拉麺」は、液体と粉末のWスープに調味油が付いて、濃厚で奥行きのあるスープの味を実現。当時は2食入り400円で発売され、従来の棒ラーメンの約3倍の価格帯だが、百貨店や高級スーパーなど新たな市場を開拓した。
「量販店などでは限られたスペースを奪い合って小売価格は下落する一方。新商品も続々と登場して消えていく中、高級棒ラーメンは価格競争とは無縁の安定した商品になることを企図した。これからは価格ではなく、質で勝負する時代だと思う」(『マルタイ50年史』より) 2007年には「博多醤油とんこつラーメン」「熊本黒マー油とんこつラーメン」、「長崎あごだし入り醤油ラーメン」と九州ご当地シリーズが次々と発売された。当時一袋2食入り200円で、通常の棒ラーメンと高級路線の間の中間ライン。これは現在でも年々売り上げを伸ばしているヒット商品だ。
さらに、1990年頃からキャンプや登山などのアウトドア好きの間で棒ラーメンが注目を浴びる。コンパクトで持ち運びしやすく、様々なアレンジが楽しめるのが魅力だったようだ。最近のキャンプブームも追い風となり、アウトドア好きの間でも棒ラーメンは定番として浸透しつつある。
■棒ラーメンの売上、10年間で約1.7倍に マルタイの棒ラーメンの売り上げは2010年が18億7700万円なのに対し、2020年は31億2900万円。10年かけて売り上げを約1.7倍も伸ばした。
「地元目線で見ればソウルフードとして定着しており、県外目線で見れば九州みやげとして展開できる点が強いと思います。ローカル食品としての強みがあります」(広報担当者) 8年前の2013年から本格的に海外展開にも力を入れ、中国本土、香港、台湾などでも販売を伸ばす。現地の嗜好を調査して商品の提案を行い、とんこつ味が特に人気を博しているようだ。 競争の激しいラーメンの世界。これだけ長く棒ラーメンが支持されてきた理由は何だろうか? ヒット商品の裏側にはもちろんさまざまな要因があるが、あえて4つ挙げてみよう。
1つ目は、先ほど挙げたようにローカル食品としての強みがあること。 そして2つ目は、ノンフライ・ノンスチーム製法で生の風味が生きた麺が特徴的であること。温かいラーメンにも冷たいラーメンにもできて季節を問わないところや鍋の締めに入れたり焼きラーメンにしたりとアレンジを楽しめるのも魅力だ。 3つ目はコンパクトで長持ちすること。賞味期限は8カ月。非常食としてストックするのにも、アウトドアのお供にも便利である。
■著名人たちも応援によって窮地から脱出 最後は、多くのファンに愛されていることだ。マルタイは、2014年4月15日業績予想を修正し、営業赤字5億9000万の見通しを発表。新工場建設に伴う減価償却で一時的なものではあったが、心配した長年の消費者たちから「箱買いする」など数々の声援がSNSのタイムラインを流れた。 「ロンドンブーツ1号2号の田村淳さんが自身のTwitterで『マルタイにお世話になった僕たちができることは買うことだ! みんな買おう!』と呼びかけて下さり、ネットではファンによる支援の声があふれました。本当に多くの人々から驚きや支援の声を頂きとてもありがたく思っております。漫画家・久保ミツロウさんも応援してくださり、その後2016年のカップ『長崎ちゃんぽん』発売40周年の際にポスターイラスト制作を依頼し現在も使用しております」(広報担当者)
棒ラーメンの誕生の背景には、「全国の家庭を素晴らしい食堂に」と夢見た創業者・藤田泰一郎氏の理念があった。その結果、多くの家庭で棒ラーメンが親しまれ、食べて育った人たちが、「家庭の味」として棒ラーメンに親しみと愛着を感じている。それがロングセラー商品の棒ラーメンの何よりの強みだ。 コロナ禍の巣ごもり消費需要の高まりでも、棒ラーメンへの注目が高まっている。 「コロナ禍における内食の増加により、以前にもまして即席麺がお客様に浸透してきています。マルタイは、『安全・安心・おいしさを追求し続け、世界の食卓に魅力ある商品を届けることで社会に貢献すること』を企業理念としています。今後は、まだ棒ラーメンを知らない多くの方々に知って食べていただければうれしく思います」(広報担当者)
最近食べていないなと思った人は久しぶりに、知らなかったという人はぜひ棒ラーメンの扉を開いてほしい。