人生で5度の水害、でも住み続けるのはなぜ?

2019年10月25日、千葉県を襲った「房総豪雨」。平年の10月の1カ月分の雨量が半日で降る記録的豪雨で、県内では11人の死者が出た。特に茂原市では避難所だった公民館までが浸水し、市内で2人が亡くなった。もともと茂原市は地形などの影響で水害が起きやすい。直近2013年にも大雨で浸水被害が起きていて、今後もその危険性は消えていない。度重なる水害が起き、これからも起きる可能性がある土地に、どうして人は住み続けるのか――。住民への問いかけから見えてきたのは、「リスク」と「つながり」の間で葛藤する姿だった。(千葉日報社・中野采香)

崖崩れが発生した茂原公園=2019年10月26日午前、茂原市 町を「捨てる」人々

 千葉県によると、房総豪雨による土砂崩れで、茂原市では住宅3戸が全壊。そのほか、市内の3000戸以上が半壊か一部損壊の被害に見舞われた。

 自宅や店舗が水害で住めなくなったり、使えなくなったりすれば、人々はまず「これからどこに住めばいいか」を考える。その中で、水害が頻発する茂原市を「捨てて」市外に引っ越したり、店舗を移転したりする選択肢は当然あり得る。

 「復旧は困難。自宅やお店を別の場所に移した人がいる」「自宅が1メートル50センチも水に漬かって、消毒や建て直しが難しく、離れた人がいる」

 房総豪雨の後、現地を取材すると、至るところでこうした声が聞かれた。人生で5度の水害、それでも「残る」

 水害の多い町を「捨てた」人がいる一方、「残る」決断をした人もいる。茂原市に70年近く暮らし、理容室を営む坂本博さん(79)も、その一人だ。

 茂原市は元々水害の多い地域だ。市内を流れる二級河川の一宮川に多くの支流が流れ込む独特の地形が災いし、1970年、89年、96年と10~20年おきに水害に見舞われている。その都度、坂本さんも水害に遭ってきた。

 「またいつ被害に遭うか分からない」。坂本さんは自宅兼理容室が再び浸水被害に遭わないようにと、家の基礎を約40センチ上げて建て直していた。だが、2019年10月、無情にも、家も職場も房総豪雨に襲われた。

房総豪雨当日。昼前に市の防災無線が鳴る頃には、雨脚は「強くなったかと思うと弱まり、また強くなったりを繰り返していた」。昼ごろ、客の安全を考え理容室の営業を切り上げると、近くの川が逆流し、道路に水がたまり始めた。

 家の基礎を上げた際、道路より高くなっていたので、「これだけ高ければ浸水することはない」と考えていた。だが、雨脚は止まらず、庭に止めていた車も、店内の理容椅子も、泥水に漬かってしまった。

 人生5度目の水害――。「今回は大丈夫だと思っていたのに…」。坂本さんは肩を落とした。「今から離れるなんて」…交錯する思い

 5度も水害に遭いながら、なぜ坂本さんは、この地域にとどまり続けるのか。

 坂本さんが住む早野地区はかつて田んぼだったという。「川も近いし、山から水も流れてくる。これまで水をためていた場所がなくなったのだから、水害が起きるのは無理もない」。坂本さんも土地柄ゆえの水害リスクは認識している。

 だが、周りに住む人々は、ともに長く暮らしている人ばかり。「ずっとここで育ってきた。長くお店に通ってくれているお客様もいるし、今から離れるなんて」。地域への愛着もあるし、理容室は近所の常連さんを抱えている。

房総豪雨で被害に遭った自宅周辺の写真を見つめる坂本さん=今年2月、茂原市早野

 もう一つ、現実的な理由もある。「自分も高齢だし、仮にどこかへ行くとしてもこんなに水害が起きている土地なんか売れないということがネック。そのため、今からどこかへ行くという考えにはなりにくい」

 それでも近年の水害には「年を重ねるごとに水位が増している」との危機感がある。「自分の身は自分で守るしかない」とは思うものの、「次また水が来たら…。注意も必要だけど、それだけでは防ぎようのないことも出てくる」。

 坂本さんは、地域への愛着と、高齢という現実的な事実と、次の水害という見えないリスクの三つどもえの中で揺れ動きながら、この地に住み続けている。あえて「戻る」という選択

 水害の多い茂原市に、あえて「戻ってきた」人もいる。今年1月、市内にあるラーメン店「みらい」の2代目を継いだ平山修身さん(40)だ。

 修身さんは、21歳で上京し、東京の中華料理店に勤務していた。将来は都内に店を出すことを考えていたが、その矢先、茂原市を房総豪雨が襲った。

 初代で父の一夫さん(70)と母の説子さん(64)が切り盛りするラーメン店は、氾濫した一宮川の近くにあり、房総豪雨で腰あたりまで浸水。調理場の冷蔵庫やストッカーなどの機材が使えなくなった。これまでに大雨被害を2度経験してきた一夫さんだったが、房総豪雨ほどの被害は「初めてだった」。

 両親や知人らとともに、修身さんも仕事の合間を縫って復旧作業に参加。豪雨翌月の11月中旬には、店に再びのれんを掛けることができた。

 そのとき、ラーメン店の再開を伝える『千葉日報』の紙面を読み、初めて自分の実家が地域に根ざした店なのだと知った。

 「小さい頃から店の手伝いをすることはあったけれど、正直、そんなにすごいとは思っていなかった。記事を読んで、地元の人に愛されているお店だったんだと知り、(店を)残していきたいと思うようになった」

 これが、あえて茂原市に「戻る」きっかけになった。

今年1月以降、家族4人でみらいを切り盛りしている。(左から)妹のはるかさん、一夫さん、母の説子さん、修身さん=茂原市八千代 「迷いもあるけど」…逡巡の果ての決意

 今年1月、修身さんは店の2代目を継いだ。東京勤務時代、埼玉県に自宅を建てていたが、2代目を継いでからは、仕事の時は実家に住み込み、休みの日だけ埼玉県に戻る生活を続けている。

 そこまでするのには「店を残していきたい。父親の代で終わらせるのはもったいない」との強い思いがあるからだ。だが、逡巡もある。

 両親が経験した房総豪雨級の災害が起これば、当然、店は水害に遭う。だから安全な場所に店を建て替えたいが、経費を考えるとすぐには難しい。しかも、自分は埼玉県に家があり、家族もいる。もちろん家族を養うお金も必要だ。都内の中華料理店時代より、実家では給料も下がる。でも、茂原のラーメン店への思いは誰にも負けない――。

 修身さんは、こうした逡巡を抱えつつも、茂原市に戻り、家族とともにラーメン店の営業を今も続けている。

 「迷いもあるけど、ここでやっていくことに意味がある」。修身さんは、そう考えている。

タイトルとURLをコピーしました