人生は“Or”より“And”の方が楽しい

~誰もあなたが幸せになろうとするのを邪魔しない。邪魔しているのは、あなた自身だ。
 「やりたい仕事があるんです。でもまだ準備不足のような気もしています。今思い切って立ち上げるべきでしょうか。それとも今の仕事を続けて基盤作るべきでしょうか」
 「子供がほしいんです。でもキャリアの継続が心配です。早く産んで休んでから仕事に復帰するのと、しばらく仕事で実力つけてから落ち着いて産むのと、どっちがいいんでしょうか」
 前回これまでの自分の道のりを書いたが、こういう風に生きていると、いろいろなヒントをもっている人に見えるらしく、よく20代、30代のみなさんからこの手の質問をよく受ける。私も人生相談の相手はもともと嫌いな方ではないので、一生懸命聞いて答えるのだが、大概のケースに通じて言えるのは、みんな「こうしたいんだけど、Aがいいのか、Bがいいのか」あるいは「Aをするべきか、Bをするべきか」という比較の答えを求めに来るということだ。
なぜ取捨選択しなきゃいけないのか
 私はそういう聞かれ方をすると、ほとんどの場合、「う~ん、本当に選ぶ必要あるの? どっちもやったら?」と答える。そうすると、相手は一瞬あっけにとられたような顔をして「どっちも・・・ですか・・・。それでいいんでしょうか」という。私も同じくらいきょとんとして、「・・・ていうか、なんで両方同時にやっちゃダメなんだっけ? OrよりもAndの方がよくない?」と返す。こんなやりとりがしばらく続く。
 生きていくにはいろんなことをしなければならない。よほどの経済的バックグランドがある人でなければ、生活のために仕事はしなければならないし、家庭が欲しい人は結婚して子供を作り育てなければならない。自分の趣味や人生もある。でもどうせ仕事をするならやりがいのある仕事をしたいし、家庭も幸せでありたいし、もちろん自分の好きなことも追求してみたい。そして「あー幸せだった!」とあの世に旅立ちたい。それがあらゆる人の本音だろう。
 だが、あらためて考えてみてみると、なんだか私達は大して長くもない人生の中で「今はこれをすべき」「次はあれをすべき」と選択することばかりに集中しすぎているのではないだろうか、と思うのだ。もっといえば、複数の中からやりたいことのいくつかを選ぶのではなくて、ひたすら二択を繰り返すという思考アプローチを繰り返している。平たい例でいえば、結婚したら仕事を続けるのか続けないのか? 続けるとしたら子供を産むのか産まないのか? 子供を産んだら一年間休むのか休まないのか? ・・・といったように。二択にすると、選択の幅が狭まってしまい、答えを出すごとに結果は小ぶりになっていく。最初から、自分が最終的に何を実現したいのか、たとえば「結婚もしたいし子供もほしいし、仕事も続けるんだ」というようなイメージを決めてから、それを実現する方法を考えたほうがずっと可能性が広がるのではないだろうか。「選択する」ということは、何かを「捨てる」ということで、選択するにも捨てるにも、かなりのエネルギーが必要だ。一度きりの人生。どうせ使うエネルギーなら、「取捨選択」のためではなく、「やりたいことをやってみる」ためのエネルギーとして燃焼してみたらどうだろう、というのがここでの私の論点なのである。
 楽しく仕事をしたい、能力を高めたい、子供もほしい、よい母でありたい(あるいは父でありたい)、趣味を極めたい、余暇はのんびりしたい。そりゃそうだろう、いいじゃない? いっそのこと全部やれば? 全部やるのは無理だ、常識的ではない、と思うかも知れないが、よくよく考えてみれば、誰もそれをあなたに「だめです、やめなさい」とは言わないはずなのだ。最初から「無理だ」と決めてかかるのはもったいない。肝心なのは、「やりたいことはやってみるのだ」という気持ちを、自分がまずもつことなんじゃないだろうか。
いろいろやるには「工夫」がいる
 もちろん人間には1日24時間しかないのだから、やみくもに2つのこと、ましてや3つ以上のことをやろうとするとどこかにしわ寄せがくることは否めない。例えば家庭の充実や趣味の追求、あるいは副業を始めたりすると、仕事の質が落ちる「可能性がある」と、誰もが思うだろう。そんな時、評価が落ちるかも、給料が下がるかも、「だから、仕事第一です」というのはもちろん簡単ではある。でもそれなら、まず仕事の質が落ちないように「工夫」してみる、という発想に切り替えてみたらどうだろう。
 第1回目に書いたが、私が日銀時代に、「18時には帰る。必要なミーティングは17時までに入れること」という指示を部下に徹底したのは、ここに当てはまるひとつのケースだろう。私が18時に帰れたとしても、アウトプットの品質が落ちては元も子もないので、私以下チームメンバーは、18時の柴沼時限爆弾を爆発させないために、必死で生産性と効率性をあげる工夫を重ねた。生産性を上げるというのは、作業効率だけの話ではない。思考プロセスを簡素化してなおかつ創造性をあげるということがポイントだ。ひとつ一つの仕事の目的を明確化すること、ゴールイメージと品質基準を共有すること、本質的な課題に集中すること、無意味なコミュニケーションを極力排除することなどなど。本質的で目的的な仕事の進め方に全員で注意を払った。結果として、全員の生産性はあがり、能力も向上し、私も狙い通りに18時にオフィスを出て、夜は子供と過ごすことができた。
 そうは言っても「そんな、柴沼さんみたいなこと、ウチの会社でやったら干されます」という声もあると思うので、どんなに工夫してパフォーマンスをあげても、組織での評価につながらない、というケースについても考えておく必要はあるだろう。結論から言うと、そういう組織は「いろいろやってみる」という生き方をする人に向いていないということになる。ではどうするか? そういう時こそ、自分をきちんと評価してくれる組織を自分で選んで転職すればよいのだ。もちろん、相手に受け入れてもらえるだけの力は持っていないと、それはかなわないから、日ごろから「自分で生き抜く力(能力)」を身につける姿勢をもっていることも、「いろいろやってみる」ための重要なポイントとなる。言い方を変えれば、サラリーマン意識を捨てて、プロフェッショナル意識を持ってみよう、ということに他ならない。
「Andな人生」は楽しく豊か
 ここまで、「やりたいことはやってみる」を実現するための考え方を書いてきたが、「そんなに大変なら、別に、一つやれればいいです」という意見もありそうなので、ここで私の友人の話をしてみたい。
 私の友人Aは38歳。国内銀行、外資銀行を経てベンチャー企業を経験、現在はある中堅企業の役員をやりながら、自分のファンドを仲間有志で立ち上げて運営している。当然、彼には本業の中堅での評価と昇進にキャリア人生を集中する、という選択肢もあったわけだが、彼はそれを選ばなかった。決して暇なわけではないのだが、本業の枠に留まらず、自分が過去の経験で培った能力を生かして価値を作り出すことがしたくて、二足のわらじを履いているのだ。今は病院、温泉旅館、レストランの再生で二足目のわらじもかなり手広く忙しい。
 友人Aと話をしていると、情報に対する感度の高さとそれを仕事に応用する力のすごさに圧倒される。とにかく、「新聞に載っている話は、すべて自分の仕事に関係している」と考えているのだ。情報レセプター(受信機)が常にピンと立っていて、一つの話題から自分の事業の発想への展開や、逆に自分の事業に及ぼし得るリスクを瞬時につかみ取る。この能力はおそらくもともと持っている感度の高さからくるのだろうが、やはりそこに対する集中力は、事業を広げてから格段に高まっている。ものすごい情報量とストーリーをもっているので、話はめちゃくちゃに面白いし、創造性も無限大で、スピード感と実行力たるや舌をまかざるを得ない。結果としてマーケットの中で彼の存在感は増し、ますます事業は広がっていくのだ。場合によっては三足目のわらじまで登場しそうな勢いで、彼は楽しくて、楽しくて、もう仕方がない、という顔をしている。
 当然Aは漫然と二足のわらじをはき始めたわけではない。個人でファンドを立ち上げるにはそれ相当の覚悟が必要だったし、サブプライム以降の資産価値の乱高下の中、初めて「組織」を離れて自分自身の意思決定を繰り返す厳しさを経験した。だが、彼は「両方やる」と決めて、「やりきるための工夫と努力」をして、実際にやりきったからこそ、今があるのだろう。
 本業の会社でも、彼が二足目で培った経験と人脈と情報量は大きな価値となる。一社だけでは発想できないことが、彼のおかげで発想できるようになり、企業の価値も高まっていく。Orの論理で動く人より、Andの論理で動く人の方が、情報や物事のシナジーを最大化しようというエネルギーがおのずと働くのだろうか。もはや友人Aが本業に専念しているかどうかは、雇用している会社にとって意味のない話となる。「Aはウチにとって必要だ」ということだけが、明確となっている。そしてAも「求められるならば組織の期待にこたえたい」というモチベーションで働く。自分のペースで会社もファンド業も動かせるところまで到達しているから、時間や資源を、自分で配分して投資し、使いこなすことができる。そんな毎日は、豊かさにあふれ、楽しくないわけがない。
Andが作りだす価値のスパイラル
 ちなみに、私もここしばらくいろいろやっている。子育てしながらコンサルタント業をやり、実はグロービス大学院でも「講師」をやっている。最近では「「コンサル頭」で仕事は定時で片付けなさい!(PHP研究所)」を執筆し、今まさにこのコラムを担当している。これらは自分がやりたいと思ってやっているものなのだが、実はやってみると全部がつながっている。グロービスでは事業再生、企業変革の授業を担当しているが、そこで教えるのにセオリーを改めて復習すると、当然コンサルタント業の実践でも活用できる。で、実際に現場で適用するとセオリーと現実とのギャップも見えるので、そのケースと対処法についてまた授業でフィードバックができる。本の出版も、これまで漠然と自分が頭の中で考えてきたことを構造化するよい機会だと思ってチャレンジしたが、この作業は私の思考プロセスを整理するのに大いに役立ち、自分の日々の仕事の進め方にも、今書いているコラムの内容にも活用できている。ついでに言えば、グロービスも本もコラムも私の副業だが、シグマクシスのコンサルタントである以上、会社のブランディングにも貢献する結果になっている。実際のところ、ここまでやると、共働きの我が家において、柴沼時限爆弾が爆発することもさすがにあって、その時は一時的に非常事態の収拾に追われることもなくはないのだが、総じて自分自身の成長の広がりを常に実感できるし、それを家族にもフィードバックできるので、豊かで楽しい生活だと思っている。
 ここでのべた私が「やっていること」を一つひとつ個別に並べると、それは「一行のレジュメ」になる。だが、これら全部をシンクロさせて、価値のスパイラルを私の中で、所属する組織との間で、さらにはマーケットの中で回せるようになると、単なるレジュメを越えた「柴沼個人のブランド」になっていくのだと、私は信じている。これは、何か一つを取捨選択することを繰り返していては、なかなか手に入らないものなのではないかと思う。
Doing(何をするか)< Being(どうありたいか)=自分の座標軸
 いろいろ書いたが、「ひとつを選ぶ」も「両方やる」も「いろいろやる」も、自分次第、ということなのだろう。私はできれば「いろいろやるコース」が豊かで楽しいと思っているが、それが必ずしもすべての人にとってあてはまるかどうかはわからない。だが、明らかに言えるのは、会社の制度がこうだから、上司がこう言ったから、はたまた世の中では一般的にこうだから、ということを理由に、漫然と川の流れに押し流されていくのではなく、自分で決めたコースに自分のボートを入れて、自分のオールで漕ぎきる・・という気持ちをもって初めて、人生もキャリアも豊かで楽しくなる、ということだ。そして、これが第1回目で書いた「自分の座標軸をもつ」ということなのだと思う。
 ここで、「すでに漕ぎ始めている人生、自分の漕いでいるコースは本当に正しいのかな」と思った読者にひとつのアドバイス。それは“Doing”ではなく”Being“の視点で自分を振り返ってみることだ。このモノの見方は、White Ship社という会社のアートコンシェルジェの方に教えてもらった。「人生にはBeingと Doingがある。Beingは、より人生の意義に近いもの。Doingは、より具体的な生活に近いもの。でも、人間の心を本当にドライブするのは、実は Beingなんだよね」と彼女は言った。わかりやすく翻訳すると、Doingが「何をするか」であるのに対し、Beingは「どうありたいか」なのだ、と自分では解釈している。日々の「やらなければならないこと」の次元に目線を落とすと、日々、時間単位の取捨選択を繰り返していかざるを得ないのが現実だろう。心をまっさらにして、自分はどんな人生を歩いてみたいんだっけ、と問いかけてみる時間を、作ってみることをお勧めしたい。
 ちなみに私は、何か自分の中を変えてみたいとき、もしくは改めて自分の“Being”を見つめなおしたい時は、出来る限り、やらなければならない事柄を前倒しで終わらせて、ぽっかり空いた時間を作るようにしている。そして当面の雑務や仕事から解放された土曜日の早朝や夕方に、静かな喫茶店のカウチに腰かけて、あるいは子供を小学校の校庭に放ったあとにベンチに座って、ボーっとしてみる。手にはA4の白紙とボールペンをもって。自分の座標軸は、案外そんな時に浮かんでくるものなのである。

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