仙台「戦後処理」の象徴・追廻住宅 最後の1軒が移転同意、来年3月までに退去へ

仙台市の「戦後処理」の象徴ともいわれる青葉区川内の追廻住宅の移転問題で、最後の1軒となっていた60代男性が市の補償に応じ、移転に同意したことが1日、分かった。市が70年以上にわたって積み残してきた仙台の「戦後」が終わりを迎える。ただ、仙台地裁で係争中の国との訴訟は、土地利用料の部分で折り合いがつかず、全面解決にはまだ時間がかかる見込みだ。

国と係争中、全面解決にはなお時間

 土地を所有する国が男性に建物を撤去して土地を国に明け渡すよう求めて2020年10月に提訴していた。男性側は借地権を主張して争っていた。男性と市は今年8月11日、市の補償の下で23年3月までに建物から退去することで同意した。一方、国は遅延損害金を求めており、和解協議は難航している。

 訴状などによると、追廻住宅は国が1946年に応急住宅として約620戸を整備、51年に事業主体の住宅営団が解散したことに伴い住民が建物を買い取って暮らしてきた。市は46年に地域を公園用地にする都市計画を決定。以後、国や市が移転交渉を続けてきた。

 一方で市は73年に住宅の新築や増改築を認め、77年には住宅金融公庫(現住宅金融支援機構)の一般融資が受けられるようになったため、住民らの新築が相次ぎ、問題が複雑化した。

 住民らは毎年国に土地代を支払い続け、大半は2006年9月で契約を終えた。男性は借地権の契約更新を国に請求したが、国は認めず猶予期間を経て提訴に踏み切った。

仙臺緑彩館はほぼ完成

 国は20年6月、仙台市に追廻地区を含む約7万9000平方メートルを25年5月末まで無償で貸し出す契約を結んだ。市は23年4月に開幕する全国都市緑化フェアのメイン会場の一つとして利用する予定で、移転済みの土地に整備した青葉山公園センター「仙臺緑彩館(せんだいりょくさいかん)」は建物がほぼ完成している。

 市の阿部正浩公園整備課長は「移転した住民の思いを受け止めた上で、杜の都のシンボルとなる公園を目指して整備を進めたい」とコメントした。

[追廻住宅]戦争被災者らのために国が国有地に整備した応急住宅。仙台市は1946年に青葉山一帯を公園化する都市計画を決定し、地区内の下水道や都市ガス、道路整備を見合わせてきた。一方で国と市による移転交渉は難航し、2006年に国と住民との土地の賃貸契約が満了。11年3月に集団移転先の市営住宅が完成した後も一部住民が立ち退きに反対して残った。

住宅営団(当時)が整備した家屋が広がる追廻住宅=1961年12月(熊谷秀逸さん撮影)

しこり残し、無念の終戦

 「親世代の苦労を見てきた。彼らが追廻で最期を迎えられるようにと思い、闘ってきた」。仙台市青葉区川内の追廻住宅で、最後の1軒となった住宅の60代男性が心情を吐露する。戦争被災者の福祉のために整備された地域は、行政サービスから取り残される経過をたどり、最終的に住民が訴訟で明け渡しを迫られる後味の悪い「終戦」を迎えた。

1979年ごろの追廻住宅。多くの住宅が立ち並んでいた(熊谷正純さん提供)

 仙台市中心部を流れる広瀬川に面した追廻住宅は、ビル群が立ち並ぶ対岸とは全く別の戦後をたどった。下水道が整備されず、地域は最後まで「くみ取り式」トイレのまま。上水道も自宅まで長い距離を自費で引かざるを得ず、井戸を利用する住民も多かった。

 市に道路の舗装を要望しても聞き入れられず、住民が自分たちで現金を出し、1975年に完成させた。住民だった宮城野区の庄子信子さん(83)は「雨の日でも泥まみれにならずにサンダルで歩けるようになったことがうれしかった」と振り返る。

広瀬川側から望む追廻住宅=1990年代ごろ(元住民提供)

 市は46年、都市計画で地域を公園緑地に指定。住宅扱いでなかったため、インフラ整備は置き去りになった。住民からは「立ち退かせるための嫌がらせ」(元住民)と映った。

 地域には最大約620戸、4000人が暮らした。診療所や酒屋、飲食店、魚や野菜を扱う食料品店もあり、住民たちがつくり上げた一つの街として機能した。

 市の移転補償は72年に始まり、当初は年間数軒が応じた。青葉山公園の基本計画が決まった96年以降、交渉は数十軒のペースに加速し、借地権契約が満了した2006年に最大の103軒が移転に応じた。

公園整備が進む追廻住宅跡=8月26日

冷遇され、追い出され、不信感拭えず

 集団移転先の市営住宅が宮城野区新田に完成した11年3月以降は、8世帯が居残った。世帯数は年々減り、19年から1世帯になっていた。

 市が追廻住宅のインフラ整備の遅れを住民に謝罪したのは契約満了直後の06年10月。初期に入居し、東日本大震災後まで65年間を過ごした武田庸子さん(84)は「戦争で家を焼き出された被災者だったが、市から冷たい扱いを受け、震災後は慣れ親しんだ地域を追い出されるようにして出た。国や市への不信感は拭えない」としこりを残す。

 「ここでひとつの街が消える」。市は公園整備後、追廻住宅の歴史を刻む石碑を跡地に建てるという。

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