仙台市が、東日本大震災で津波被害を受けた沿岸部で進める防災集団移転促進事業が15日、国の認可を受けた。約1700世帯を対象とし、単独の計画としては被災地最大の移転事業が本格的に動きだす。しかし住宅再建費用の工面や移転先での生活に不安を訴える声も少なくない。津波の危険があっても住み慣れた場所に戻りたいと望む住民もいる。集団移転、住宅改修、現地再建…。それぞれの選択を迫られる被災者を訪ねた。(報道部・村上俊、亀山貴裕)
[仙台市の防災集団移転促進事業計画] 宮城野区と若林区の計7地区1706戸、約4700人が対象。宮城野区田子西、若林区六郷など計14地区を移転先に用意する。事業費は約567億円で、2015年度までに移転を完了させる予定。
住宅再建ローンの利子相当額や引っ越し費の補助といった支援策があり、移転跡地は自治体に売却できる。住居移転や用地買収に強制力がないため、対象者の合意が前提となる。仙台市は借地料の免除(最大50年間)など独自の支援策も打ち出している。
仙台市のほか、岩沼市、石巻市、岩手県野田村、相馬市など計7市村の25地区(3925戸)の計画が国に認可された。
◎現地再建 古里思う気持ち置き去りに/市への不信感募らす
土台だけが残った住宅跡に、黄色いハンカチが潮風にはためく。
若林区荒浜地区。ここで生まれ育ち、今は仮設住宅で生活する貴田喜一さん(66)は再び戻って暮らせることを願い、ハンカチを掲げる活動を仲間と続けている。
「移転を望む人たちにとってはいい知らせだろうが、古里を失いたくないという気持ちは置き去りにされたままだ」
事業計画の本格始動を複雑な思いで受け止める。
震災前には約800世帯が暮らした古里は昨年12月、災害危険区域に指定され、家を再建することはできなくなった。
市は常に、方針をある程度固めて説明会を開いてきた。住民の合意を得た時点で区域を設定する自治体もある中、指定を先行させた市の方針に不満を抱いた。
「津波が来る場所に家を建てられないなら、島国の日本では海沿いに誰も住めなくなる。市の決定はやり過ぎではないか」。行政への不信感は、日に日に強まった。
同じ考えを持つ住民らと「荒浜再生を願う会」をつくり、2代目の代表に就いた。要望や公開質問状で市の見解をただし、危険区域の撤廃を求めて行政訴訟を起こそうとも考えた。
毎週月曜の会合に集まるのは十数人にとどまる。仲間や賛同者をどう増やすか、頭を悩ます。
「自然環境の豊かさと災害リスクは背中合わせ。荒浜で安全な暮らし方ができることを具体的に提案していきたい」
貴田さんらは今月上旬、行政訴訟は見送ることを決め、市との「対話路線」にかじを切った。率直な意見交換に、現地再建の望みを託す。
◎内陸移住 崩れゆく地域少しでも早く/資金確保に不安残す
「少しでも早く進めてほしい。ただそれだけです」。若林区藤塚の農業板橋吉光さん(59)は、資金確保に不安を抱えながらも、自宅再建を果たす日を待ち望む。
農家の3代目。消防団員として住民の避難誘導をしていた時、名取川の堤防の上で古里が津波にのまれるのを見た。自宅は流され、農地約1.5ヘクタールも水没した。藤塚地区では約280人のうち26人が犠牲になった。
みなし仮設住宅に入居してしばらくは消防団の活動などで忙しい日々が続いた。昨年秋、古里が災害危険区域となることを知った。「戻れるなら戻ったかもしれない。でも戻れない」。自分に言い聞かせ、六郷地区に市が準備する団地への集団移転を決めた。
約260平方メートルの自宅跡地を市に買い取ってもらい、借地に家を建て直す。借地料は30年前後は無償だが、悩ましいのは宅地の買い取り価格が低いことだ。価格の目安となる路線価は震災後、25%下がった。土地の形状などによってはさらに安くなる恐れもある。売却代金だけでは、千数百万円に上る家の再建費用は到底、賄えない。
流された家や納屋のリフォームのローンも残っている。被災農家の仲間と設立した共同営農組織の収入が頼みの綱だ。
後戻りはできない。古里の住民は1年余りの「仮暮らし」の間にばらばらになりつつある。六郷の移転先を希望したのは藤塚地区の約90世帯のうち半分ほど。事業が長引けば地域の再建は一層難しくなる。
「小さくてもいい。夫婦2人が暮らせて、たまに子どもたちが帰ってこられるような家に」。板橋さんは安心できるささやかな暮らしを願う。
◎自宅改修 行政頼らずたとえ1軒でも/支援枠外自前で工面
七北田川沿いに住宅街が広がっていた宮城野区和田・西原地区は、百数十軒以上の住宅やアパートが流されずに残った。だが、仙台湾や仙台港に近く、最大4メートル以上の津波浸水被害が想定されるとして、約280戸が集団移転の対象となった。
対象世帯は、元の場所で自宅の新築はできないが、改修してなら住むことができる。和田・西原地区では、海岸から1.5~2キロほど内陸側を中心に、約40世帯が自宅を直して生活している。
会社員堀江雄一さん(41)もその一人だ。「これだけ大きな天災で、行政の決定を待っていたら何も進まない。支援を当てにせず、やれることから取り組んできた」
妻と子ども3人との5人暮らし。震災から4日後、水が引くのを待ち、家族総出でがれきを撤去した。ことし1月から自宅を修理し、4月下旬に再び住み始めた。
2006年に25年ローンで建てた自宅は、まだ約2500万円の返済が残っていた。「移転先で家族皆で暮らせる家を建てれば、ローンは倍。費用を考えれば選択肢は他にない」
移転促進区域での住宅改修は、行政の支援策の対象外。修理費約800万円は、銀行からの借り入れや地震保険で工面した。
家は残っても移転を望んだ人、家が流失し戻りたくても戻れない家族、トレーラーハウスに1人で住み続けるお年寄り…。集団移転が動きだした今も、地域にはさまざま事情を抱えた人の思いが交錯する。
「周囲の声がいろいろ聞こえてきて、悩んだ時期も実はあった。でも、たとえ1軒でも残っていれば、集会所のような存在になれるんじゃないか」。変わり果てた古里で、新たなコミュニティーのかたちを思い描く。