働かないオジサンの定年後は、寂しい サラリーマンは、社会と直接つながっていない

どこの職場にもいる、「働かないオジサン」――若手社員の不満が集中する彼らは、なぜ働かなくなってしまったのか? 「どこの職場にもいる」ということは、何か構造的な問題が隠れているのではないか? ベストセラー『人事部は見ている。』の筆者が、日本の職場が抱える問題に鋭く迫る。
■定年後の生活は、ハッピーか?
『アバウト・シュミット』という米国映画をご存じだろうか。名優ジャック・ニコルソンが演じる主人公シュミットが、勤め先の保険会社の机に座って定年退職日の終業を待っている姿がオープニングである。
シュミットは、仕事一筋のまじめで平凡な男なのだが、定年後には大きな試練に見舞われる。退職後に会社に行くと、自分が作成した引き継ぎ書類がダンボール箱に入れられたままであることを知り、ショックを受ける。その後、妻が急死するが、彼女の手紙を整理していて、妻と親友が不倫をしていたことを知って憤る。
一人娘が連れてきた婚約者は、どうみても彼にはまともにみえない。結婚式のスピーチを終えると、シュミットはトイレにかけ込み、その怒りを爆発させる。
このほかにも厳しい現実が次々と彼を襲う。
シュミットの日常の姿を淡々と描きながら、オジサンのとまどいと孤独を見事に描いている。定年後の厳しさの一端を知り、私にとっては、どんなホラー映画よりも恐ろしかった。
■会社を辞めてから何をするのか?
厚生労働省によると、男性の平均寿命が初めて60歳を超えたのは、1951年のことである。当時の定年が55歳だとしたら、引退後少しゆっくりすると、お迎えが来るというイメージを持つことができた。
ところが最近は、男性の平均寿命は80歳に達しようとしている。60歳で退職しても、20年以上が目の前にある(60歳男性の平均余命は83歳)。およそ半世紀余りの間に、約20年寿命が延びている計算だ。
「定年後の20年の時間を自分で埋めるとすると大変だ」「人生が80年なら、残る人生で、もう1回勝負できるかもしれない」など、人生80年を意識している人が当たり前になってきた。ただ、80歳まで生きることはイメージしていても、その間をどう暮らすかまでは、具体的に考えが及ばない人が多いように思える。平均寿命の伸びがあまりにも急激だったので、意識や生活がそれに追いついていないのだろう。
数年前、私が勤務する会社の退職金・年金制度の大幅な改正があったときに、50代後半の同期が集まったという。そのときには、定年を待たずに退職すると得か損かの議論で大いに盛り上がった。ところが「それでは辞めて何をするのか」の話題になると、急にその場は静まりかえったらしい。
平日の図書館では、定年を迎えたとおぼしき数人の決まった顔ぶれのオジサンが、新聞を読むために朝の開館を待っているという話を聞いた。
私は、活力にあふれ、社会と密接にかかわるシニアの増加を目指すNPOで講演したことがある。講演後の食事のときに、そのNPOの幹事の方が、「定年になって半年間何もしないと、そこから立ち上がるのが大変になる。私もこのNPOに参加して救われました」と話していた。
会社を退職しても、次のステップが見えずに立ち止まったままの人が多いのかもしれない。会社の仕事中心の生活から、成熟した人生への切り換えが求められているともいえる。
■働かないオジサンは、社会と切れている
私が、新入社員のときにいちばん奇妙だと感じたのは、電話をかけたり、書類を作成したりするだけで、給料がもらえることだった。私の実家は薬局を営んでいたのだが、母が閉店後に、毎日の売上金から仕入れに回す分のおカネ、食費、光熱費のおカネなどを封筒に入れて整理していた。
この経験から、個人事業主は社会と直接的につながっているが、会社組織で働く社員は会社を通して社会と間接的に向き合っていることに気がついた。
一人ひとりの社員は、仕事のパーツ、パーツを受け持つ分業制だから、電話を取り次いだり、書類を作成したりするだけで給料がもらえる。会社は、法人という形で、社会と直接つながっているが、そこで働く社員は、会社を通して初めて社会と関係を持っているのである。間接的な関係であると言っていいだろう(右図参照)。多くのサラリーマンは意識していないが、ここは重要なポイントである。
さらに、働かないオジサンは、会社の仕事に対する意味を失っているので、社会と間接的にもつながっていない。切れているといっていいだろう。
それでも会社という枠組みの中にいれば、何とか安心感を得ることができる。しかし会社から離れると、社会と何の関係も持っていないことが露呈して、自己のアイデンティティに悩み、自分の居場所のなさに戸惑うのである。
そう考えると、働かないオジサンの定年退職後の行く末は、厳しくなることが予想される。冒頭に紹介したシュミットも、定年後は、社会とのつながりが完全に切れた状態だった。唯一、彼はアフリカの子供たちを援助するプログラムをテレビで知り、6歳の少年ンドゥグの養父になって、彼に手紙を書くようになっていただけである。
■社会とつながれば、生涯現役へ
個人事業主が社会とつながるためには、自分自身の得意分野を把握して、社会の要請(顧客のニーズ)に結び付けることが求められる。簡単な数式でいえば、
X(自分の得意技)+Y(社会の要請・顧客のニーズ)
ということになる。
しかしサラリーマンの場合は、Y(社会の要請・顧客のニーズ)は、自分で掘り起こさなくても働いている会社が与えてくれる。社会的な要請に直接インターフェイスを持っているのは、あくまでも会社である。
私は現在、半分はサラリーマン、半分は執筆などのフリーランスという生活を送っている。フリーランスとして本格的に動き始めたのは、50歳になってからだ。そのときに、最も難儀したのは、このYの部分だった。
X(自分の得意技)は、サラリーマンから転身して起業・独立した150人に、来る日も来る日も話を聞きまくった。彼らの生き方に何度も自分を重ね合わせてきたので、この分野についてはそこそこ詳しいと自負している。
しかし、Y(社会の要請・顧客のニーズ)をつかむことは簡単ではない。会社に所属する限りは、Yを考えなくて済んだからである。多くのサラリーマンは、このYの部分が弱いので、生涯現役が遠のくのである。
個人事業主の一例として、お笑い芸人さんを考えてみよう。現在、テレビで自分の名を冠にした番組を持っている、ビートたけし、明石家さんま、笑福亭鶴瓶などの各氏は、いずれも若いときに、漫才や落語で修業を積んでいる。漫才や落語を通して、Y(社会の要請・顧客のニーズ)とその変化を把握するトレーニングを徹底してやってきているので、長い期間にわたって大きな枠組みで仕事ができるのである。
一方で、毎年、テレビで爆発的にヒットする芸人さんもいる。世の中では一発屋とも呼ばれている。もちろん一時的にしても、芸人さんとして売れるということは、すごいことだ。ただ、彼らの多くはX(自分の得意技)をやっていたら、たまたまY(社会の要請・顧客のニーズ)に激しくぶつかったものである。Yをつかみ切れていないので、顧客のニーズが変化すると対応できない。だから2年もすれば、画面に登場しなくなるのだ。
サラリーマンの場合には、芸で食べていくということではないので、同様に考える必要はない。しかし社会に対するつながりが薄いのだということは、意識しておいて損はないだろう。生涯現役を目指すのであれば、何らかの形でY(社会の要請・顧客のニーズ)を把握する必要があるからだ。
さらに働かないオジサンになると、直接にも間接にも社会とつながっていないので、より厳しい状況だと認識しておくべきだろう。
会社の仕事にどうしても意味を見いだせなければ、会社の枠をはみ出て、社会的要請に応えるように努力すべきである。それができたら、彼は、もはや働かないオジサンではなくなる。会社の仕事の中にも、社会的な要請を見いだすことができるようになるからだ。
冒頭の映画『アバウト・シュミット』のラストシーンで、シュミットは留守中に届いていたチャリティ団体からの手紙を開ける。その中にあるタンザニアの養子ンドゥグが書いた、大人と子供が手をつないでいる絵を見て、シュミットは泣き出すのである。
シュミットに感情移入してしまうすばらしい場面であるが、それでも人とつながるためには、自分で何かをやらなければならないという、厳しいメッセージも込められている。世の中が求めていることの中から、自分が取り組む何かを見つけることが、生涯現役には必要なのである。

タイトルとURLをコピーしました