【ジャニー喜多川氏「性加害」半世紀の真実】#2
ジャニー喜多川氏の性加害を暴いた“禁断の書”の中身…超人気アイドルが「ジャニーさんが、ジャニーさんが…」
ジャニーズ事務所を1962年に創業、75年に東京・六本木で設立したジャニー喜多川氏は2019年に亡くなるまで社長を務めた。少年への性的虐待は「単純計算しても2500人以上」と、元ジャニーズJr.の平本氏(56)は試算する。ジャニー氏は自宅を「合宿所」と称し、目を付けた少年たちを呼び集め、共同生活を送っていた。
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「僕が入った80年代初頭はトシ(田原俊彦)、マッチ(近藤真彦)、川崎麻世がいて、後に入ってきたのが少年隊でした。原宿に合宿所があったのはKinKi Kidsあたりまでで、滝沢(秀明)世代からは六本木に移りましたけど、ジャニーさんのやり口は変わらなかったようです」
──当時は「こちょこちょ」、近年は「カルピス」など、少年たちはジャニー喜多川氏の性加害を隠語で呼んでいたそうですね。
「だいたい『ユー、お風呂入りなよ』と入浴を勧めてくるんです。原宿の合宿所には大きな風呂場があり、入ると後からついてきて、頼みもしないのに全身をくまなく洗ってくれるんです。そして大量に買い込んでいるパンツをはかせて、大部屋での雑魚寝に誘う。夜になるとガウン1枚を羽織り、狙いを定めた相手の隣にジャニーさんは割り込んでいくんです」
■「ユー、テレビ出してあげるよ」
──狙われるのは主に小中学生の少年。
「そう。腕枕で『ユー、テレビ出してあげるよ』『もうすぐデビューだね』などと耳元で囁きながら、マッサージといって体を触り、徐々にエスカレートさせていく。僕の頃もジャニーさんが部屋に入ってくると、ほとんどが体を丸めるなどして自分の身を守ろうとしてました。すると次々に相手を代え、手を出していく。それで、ぐるぐる回っていくのですが、最後には仲間が犯される場面に居合わせることになってしまう。僕も寝たふりをして、目をつぶり耳をふさぎましたが、どうやっても、いや応なく、見聞きしてしまうんです」
今もトラウマに
──そして、泣き寝入りするしかなかった。
「ほとんどがそうですね。アイドルグループのメンバーはデビュー後、泣きながら逃げ出し、また合宿所に戻っていくところをファンに目撃されています。同じように染められてしまう仲間もいましたけど、ほとんどは家族にも言えず、泣くに泣けない苦しみに喘いでいた。合宿所に行くとき、こわくて嫌で震えていた仲間や、ジャニーさんのみならず、おじさんが駄目になり、目を背けていた姿が忘れられません」
──ジャニー氏による性加害を、知らずに少年たちは入っていったのですか。
「世間は昔から知っていましたね。13歳で僕がジャニーズに通い出したとき、『あそこはホモだろう』と親戚から言われましたし。でも、僕はその意味すら知らず、何かおいしい食べ物かと思ってしまった。当時は皆その程度の認識だったと思います。やられて知ったあとも『ABCのうち、どこまで?』などと、ひそひそ確かめ合うくらい。警察に訴えても相手にされず、どこにも逃げ場はありませんでした」
──性虐待は「魂の殺人」と呼ばれ、手痛いトラウマになる。
「ジャニーさんはいつも厚底靴で、室内も厚底サンダル。脱ぐとズボンの裾を引きずってしまうような小柄なおじさんなんです。デビューの見返りと割り切ろうとしても、力で抵抗しようとすればできたというところが、またトラウマになっていく。私は途中まででしたけど、ジャニーさんのマッサージもあって、いまだに足の指がポキポキ鳴るんです。この音を聞いても、当時を思い出し、胸が痛みます」 (つづく)
(取材・文=長昭彦/日刊ゲンダイ)
▽平本淳也(ひらもと・じゅんや) 1966年、神奈川県厚木市生まれ。ジャニー喜多川氏からの誘いで13歳から「合宿所」に出入りし、田原俊彦らのバックダンサーを務める「ジャPAニーズJr.」に参加。20歳で退所。96年の著書「ジャニーズのすべて」3部作など、自らの被害体験を含むジャニー氏から受けた性加害の告発は約30年に及ぶ。