・その1:「ヒット曲はほぼない」
自身が自虐ネタにしていたように、内田さんはヒット曲というヒット曲に恵まれていない。「ブルー・キャップス」「ブルージーン・バップス」「ザ・フラワーズ」などを結成、その他多くのバンドを渡り歩くが、代表曲となるようなヒット曲はなかった。
だがしかし、逆に言えばヒット曲がないままに日本ロックンロール界の首領にまでなったのは内田裕也さんしかいないだろう。まさにロックンロールである。
・その2:「ビートルズ日本公演で前座に出演」
ヒット曲には恵まれなかった内田裕也さんだが、1966年6月のビートルズ日本公演では尾藤イサオさんとのツインボーカルで前座に出演を果たしている。当時のビートルズ人気を考えれば偉業中の偉業であり、内田さんの人脈の広さやカリスマ性がわかるハズだ。
・その3:「樹木希林と長く別居」
多く人がご存じの通り、妻の樹木希林さんとは1973年に結婚後、わずか1年半で別居している。また、1981年には内田さんが無断で離婚届を提出するあたりも、まさにロックンロールとしか言いようがない(このときは樹木さんが離婚を認めず無効)。
・その4:「東京都知事選に立候補」
1991年には東京都知事選にも立候補している内田裕也さん。政見放送の場で熱唱したことはもはや伝説だ(しかもアカペラ)。この型破りな言動こそロックンローラー・内田裕也さんの真骨頂である。
・その5:「石巻でバナナとみかんを690個配布」
2011年に東日本大震災が発生した際、宮城県石巻市で「石巻は英語にするとロックンロール。他人事とは思えない」との理由で、バナナとみかんを690個ずつ配布した。全てのことをロックンロールで解釈してこそ、日本ロックンロール界の首領なのであろう。
ロックンロール以外の言葉で表すならば、まさに破天荒な生涯を送った内田裕也さん。時に賛否両論を巻き起こすこともあったが、それも内田さんの持つ純粋さであったハズだ。
最後に樹木希林さんが娘の内田也哉子さんに「なぜお父さんと別れないのか?」と問われた際に言ったとされる言葉をお送りしたい。
「だって、お父さんにはひとかけらの純なものがあるから」
心よりご冥福を申し上げます。