半蔵門線“ナゾの終着駅”「中央林間」には何がある?

東京の地下鉄は、ほとんどが郊外の私鉄路線に直通している。改めて言うほどのことでもないくらい、当たり前のことだ。ただ、ここで少しだけ問題が生じる。ただでさえわかりにくいほどに入り組んでいる東京の地下鉄ネットワークが、ますます複雑怪奇になってしまうのだ。 【画像】都心部から約1時間…半蔵門線“ナゾの終着駅”「中央林間」には何がある?  私鉄への直通のおかげで、東京のド真ん中の地下鉄駅を出発する列車の行き先が途方もないほど遠くになる。たとえば、東京メトロ東西線ならば、「東葉勝田台行き」。これじゃあいったいどこに連れて行かれるのか、不慣れな人にはなかなか絶望的な行き先に違いないと思う。  そんな絶望的な行き先を持っている地下鉄の筆頭が、半蔵門線である。

半蔵門線“ナゾの終着駅”「中央林間」には何がある?

半蔵門線“ナゾの終着駅”「中央林間」には何がある?

 北側では東武スカイツリーラインに乗り入れて久喜、もしくは南栗橋。そして南側では、東急田園都市線に乗り入れて終点は中央林間である。久喜や南栗橋はまだいい。なんとなく、そういう地名の場所があるんでしょうね、ということは容易に想像できる。  ところが、中央林間とはいったい何だろうか。その駅名を字面のままに受け取れば、林の間の真ん中、とでも解釈すればいいだろうか。つまりは何も言っていないに等しい。雑木林の真ん中にある駅なのか、いやそんなはずはない……などと妄想しながら、パープルカラーの半蔵門線に乗るばかりだ。  というわけで、ずいぶん前にも似たようなことを書いた記憶があるが、とにかく改めて中央林間駅にやってきたのである。渋谷駅からは田園都市線の急行に乗って約40分。地下鉄の大手町駅からだと1時間、遠く久喜駅から乗れば約2時間というロングラン。新幹線だったら、東京から京都まで行けてしまうほどの長旅である。

“東急の城”のような気配を感じながら進むと…

 田園都市線は、「多摩田園都市」という多摩丘陵を切り開いて造成されたニュータウンの中を走る。その中核的な駅のひとつがたまプラーザ駅。さらに長津田駅ではJR横浜線と交差し、南町田グランベリーパークというやたらと長たらしい駅の周りには巨大な商業施設が広がっている。  丘陵地らしく、微妙なアップダウンを繰り返しながら、田園都市線は中央林間を目指して走る。地上から堀割に入り、最後に地下に潜ったところが、中央林間駅だ。  ホームから階段を登って改札を抜けると……さすが天下の東急さん。改札口の先はそのまま「エトモ」という商業ビルの中(1階に相当

 入っているテナントは郊外の駅ビルではすっかりおなじみのラインナップではあるが、ここに来れば日用品やちょっとした外食まですべてが揃うわけで、実に便利である。やっぱり東急田園都市線の終点は、スタート地点の渋谷と同じく“東急の城”になっているのだろうか。  ただ、渋谷駅もそうであるように、中央林間駅は東急さんだけのものではない。東急の改札を抜けて吹き抜けになっている「エトモ」の中を抜けると、高架下に改札が設けられた小田急江ノ島線の中央林間駅が出迎える。ふたつの改札の間を急ぐ人もいて、東急と小田急を乗り換えるためにこの駅を使っている人も少なからずいるようだ。  東急が東からやってきて、小田急は南北に線路が通る。小田急側には小田急百貨店もミロードもないので、城というほどではないが、少なくとも中央林間駅を支えているのは、東急さんと小田急さんのコンビなのである。  こうして中央林間駅の概観がつかめたところで、駅の周りをしばらくうろついてみることにする。

東急の線路がやってきた東側から歩いていくと…

 東急の線路がやってきた東側をまずは歩く。駅ビルと東急スクエアの間を抜けて東に向かう。柿の木通りと名付けられ、街路樹がきれいに整備されている道をまっすぐに。東急スクエアが途切れた先の辻からは、通り沿いに店舗がいくつかあるほかはほとんど住宅地に移る。  5分と歩かずに南北に走る交通量の多い通りにぶつかるが、その通り沿いにはロードサイド系の店舗もいくつか並ぶ。ただ、あとはここも徹底的なまでに住宅地といっていい。  田園都市線の線路は、この南北の通りの東側で地上に顔を出す(といっても堀割の中を走る)。特に整備されていない緑地や畑もところどころにあったりはするが、基本的にはどこまでも住宅地だ。  どちらかというとちょっと古めの戸建て住宅やアパートがメインだが、南側を見ると巨大なマンションも見える。訪れたのが夕方前だったこともあってか、学校帰りの子どもたちの姿も目立つ。さらにしばらくうろついているうちに、高校生も増えてくる。近くには高校もあるし、ファミリー層もだいぶ住んでいるような、そういうエリアなのだろう。

一見、単なる住宅地のようですが…

 住宅ばかりという駅の周りのありようは、どこまで歩いても変わらない。駅の南東側には三機工業の工場があったり、りんかんモールという大きなショッピングセンターがあったりはするものの、基本的にはどこまでいっても住宅地だ。

 街路のつくりもシンプルで、基本的には東西南北に揃った碁盤の目。ところどころに対角線の道路も通っているが、そうした整然とした住宅地という中央林間駅周辺の街並みは、小田急線を超えた西側に出ても変わらない。  ただ、街路は整然としていても、その合間に建っている住宅のタイプはさまざまだ。古めかしい戸建て住宅やアパート、ところどころに巨大な新しめのマンション、ちょっと年季の入ったマンションもあるし、比較的歴史の浅そうな戸建て住宅が集まるゾーンもある。

いかにも“私鉄沿線”といった感じの西側・小田急線沿い

 駅の西側の小田急線沿いには昔ながらの団地とおぼしき建物群もある。商業施設はほとんど駅の周辺に集約されていて、東急の地下ホームの直上には東急系の商業施設、小田急線西側には個人経営の小さな居酒屋の類いも集まっている。  駅前広場があるのは、東急側だけではない。小田急線の中央林間駅北西側、踏切の脇にもほとんどが駐輪場に覆われてしまっている小さな駅前広場が設けられている。  その脇には、なぜか駅舎以上のインパクトを持って堂々としているモスバーガー。昭和の香りが濃厚な立呑み屋や喫茶店も踏切脇にあって、東急側の立派な商業ビルと比べると、小田急側はどことなく“庶民的”といいたくなる。駅舎のすぐ脇に踏切があるところなんかも、いかにも“私鉄沿線”といった感じで味わい深い。

ツートップ・小田急と東急が接続している「中央林間」

 いずれも東京から神奈川に向かって走る大手私鉄である東急さんと小田急さん。じつは、この2社の路線が接続しているのは中央林間駅だけだ。まさにコンビ、タッグを組んでこの駅を形作っているといっていい。  お客の数は、1日平均の乗降人員でどちらも8万人台(2021年度)。それほど差はないものの、ほんの少しだけ東急のほうが多い。コロナ禍で減少する前は、東急が10万人を超え、小田急がわずかに10万人を下回るという感じでずっと推移してきた。  このデータに加えて、東急駅前の商業ビルの圧倒的な存在感。ついでに東京都心からの“終着駅”としてのバツグンの知名度、こういったもろもろを合わせて考えれば、中央林間駅の主役は東急さんだろうと思い込んでしまう。しかし、歴史を辿ればそれはまったくの間違いである。

開業は約100年前…そのころの「中央林間」は“都市”だった

 中央林間駅が開業したのは、案に反してそうとう古く、1929年のことだ。最初にこの地にやってきた鉄道路線は、小田急江ノ島線だ。その当時は、中央林間都市駅と名乗っていた。いまの駅名に加えて“都市”が付いていたのだ。  となれば、このあたりはなにかしらの都市だったのかというとそれもまた違う。むしろいまのほうが遥かに都市で、開業当時の中央林間“都市”は、ほとんど何もない雑木林の中の駅に過ぎなかった。  それでも駅名に“都市”がついていたのは、小田急の創業者である利光鶴松がこの一帯に“林間都市”を建設しようという壮大な構想を抱いていたからだ。  1927年、一気呵成に小田急小田原線を開業させた利光は、その2年後に江ノ島線も全線で営業を開始。行楽地であった藤沢や江の島へのアクセスという狙いはむろんのこと、林間都市の開発もこの路線の大きな目的であった。

“田園都市”を目指した開発の行方は…

 実際に、小田急は路線開業に先駆けて1925年から沿線の用地買収を進めている。当時の地名でいうと買収の対象になったのは大和村・大野村・座間村一帯の約100万坪。そこに広大な住宅地を建設し、さらにスポーツ施設や教育施設、工場などを建設・誘致して巨大な人工都市を作り上げようというのが、利光の野望だったのだ。  この計画のベースにあるのは、渋沢栄一らによる田園都市開発(現在の東急目黒線・東横線沿線、田園調布など)や小林一三による阪急電鉄の沿線開発だったようだ。  彼らのいう田園都市構想とは、簡単に言えば緑地をふんだんに取り入れて住みやすさを追求した郊外のベッドタウンのこと。都心部への通勤の便を確保するために、鉄道とは一体不可分の関係にあった。利光は、そうした理想郷を江ノ島線沿線の雑木林の中に作ろうと考えた。それが、林間都市計画なのだ。  地元の地主さんたちも協力し、大和村の村長や大地主の長谷川彦太郎さんらがかなりの土地を小田急に売却したという。いまでいうなら再開発のための立ち退きだ。が、当時は何もない雑木林だったわけで、当時の価格にして坪単価1円30銭前後での買収だった。  江ノ島線が開業した1929年からは宅地の分譲もスタート。最初に分譲されたのは南林間駅(当時は南林間都市駅)周辺で、中央林間駅周辺の分譲がはじまったのは1931年。分譲価格は坪あたり最高で33円だったという。  さらに大和学園(聖セシリア女子中学・高校)の開校やゴルフ場の開設なども進み、林間都市計画は順調に進む……はずだったが、現実は厳しかった。

 小田急は、下見客に無料乗車券を配布し、土地を購入した人には3年間の無料乗車証を与えるなど、必死の販促活動を展開する。しかし、分譲開始から10年経ってもなかなか思うように土地は売れなかった。  ちょうど林間都市計画が進んでいた昭和のはじめは、長引く不況の時代への入口にあった。さらに戦争の時代も目前に迫っていた。そうした社会背景に加えて、東京への通勤が当時の感覚にすればあまりに遠かった。

1955年の中央林間地区の人口はわずか1766人

 最初期に林間都市に引っ越してきた人たちが、1940年に小田急に陳情書を出している。それをかいつまんでまとめると、引っ越してきてからは山火事や盗難に苦しめられて苦労ばかり、住宅がどんどん増えて便利になるはずだったのにまったくそうはならなかった、という。  結局、1941年には中央林間都市駅は中央林間駅に改称している。およそ“都市”とはいえない、雑木林の中の駅であった。戦後、1955年時点の中央林間地区の人口はわずか1766人だったという。  戦後もしばらくは大きな変化が起こることもなかった。今回歩いたような、東急線側の住宅地は、まだまだまったく生まれる気配すらなかった。きっかけは、なんといっても東急田園都市線の開業である。

田園都市線がやってきたのは1980年代になってから

 田園都市線が中央林間駅までやってきたのは1984年のこと。同時に地下鉄半蔵門線の乗り入れもスタートしている。田園都市線乗り入れの時点で商業施設と一体となった駅ビルもオープンしており、さらに大型マンションも建設された。いまの“東急側”の駅周辺の形は、その当時にすでに完成したといっていい。  以後、中央林間駅周辺は文字通りめざましい発展を遂げる。田畑や雑木林はほとんどが住宅地に生まれ変わり、商業施設も増えて人口は急増してゆく。戦前、小田急の利光鶴松が抱いた“林間都市”開発の野望は、それから半世紀以上経って、期せずして東急の乗り入れを契機に実現したのである。  もちろん小田急が悪いわけではない。戦前の時点では、いくら理想的な生活環境といっても都心の職場まで1時間以上の通勤時間はなかなか受け入れられなかった。ほんの直前まで、職住一致が当たり前の生活スタイルが主流だったわけだからムリもない。  それが半世紀以上経って、1時間の通勤なんて当たり前の時代になったということも、中央林間の“都市化”につながったのだろう。  いまの中央林間駅。東急の商業施設や小田急側の駅周辺のいかにも私鉄らしい雰囲気の町並みを歩けば、なかなか便利で住みやすい町であろうことは容易に想像がつく。東急線では渋谷まで、小田急線では新宿まで、いまではどちらも約40分で結ばれている。

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