反日教育を受けてきた韓国人女性が、日本への帰化を選んだ理由

観光大国となりつつある日本。外国人と接する機会も今後ますます増えていくことが予想されます。それを「新鮮で楽しい」と思う人がいる一方で、「外国人はマナーが悪い」「日本人の方が優秀だ」などといった歪んだ感情を抱く方がいるのもまた事実です。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、日本に留学したある韓国人女性が体験した「異文化摩擦」の実例を紹介しながら、「なぜ行き違いが生じてしまうのか?」「お互いに理解し合うにはどうすればいいのか?」について考察しています。

日韓文化摩擦を乗り越えて

日帝時代を頑迷に反省しない日本人―それは許さないという反日意識を強く持っていた私は、どこへ行っても優しく親切な日本人、どこへ行っても整然としてきれいな日本の街並みに触れて、何か肩透かしをくわされた感じがした。

 

戦後、最も強固な反日教育を受けた「反日世代」といわれた私の世代は、日本といえば「悪魔の国」と答えるほどだったから、「日本人がよい人たちであるはずがない」という強い先入観をもっていたのである。

(呉善花『私はいかにして「日本信徒」となったか』)

これが「東京経由のアメリカ留学」の計画で来日した27歳の韓国人女性・呉善花さんの日本での第一印象であった。

日本の商売人は何て良心的なんだろう!

昭和58年7月に留学生ビザで来日した呉善花さんは東京は北区十条の友人のアパートに同居し、そこから日本語学校に通い始めた。ソウルでは間借り生活で台所やトイレも共用だったが、ここではすべて自前で、さらに友達が冷蔵庫、洗濯機、テレビ、電話まで揃えていたのにびっくりした。

白米のご飯のおいしさにも感動した。韓国で白米を食べられるようになったのは1988年のソウルオリンピックの頃からである。それまでは一般の家庭では白米に粟や麦を混ぜて食べていた。学校へ持って行く弁当でも100パーセント白米のご飯は贅沢だというので禁止されていた。

そんなある日、近所のお米屋さんでお米を一袋買って炊いてみると、パサパサとしてまるでおいしくない。不思議に思って店で聞いてみると、三分づきのほとんど玄米と同じ健康食用のコメを間違えて買ってしまったと分かった。

店のご主人は呉さんが誤って買ったお米を普通のお米に取り替えてくれ差額だけを支払って下さい、と言う。何て良心的なんだろうと呉さんは思った。ソウルでは1万ウォン札を渡したのに、5,000ウォンだったと店の人がごまかして喧嘩になったことが何度もある。日本ではそんな事は絶対にない、日本人は良心的だ、という噂が留学生たちの間に流れていく。

自然の美しさ、人々の温かさ

来日した当初は、親切な人が多い秩序が安定している街がきれい豊かな生活物資が満ちあふれているなど、とにかくいい所ばかりが目についた。

特に呉さんの心を打ったのは、海と山が間近に接近した独特の地形が織りなす自然の美しさだった。東京の叔母に誘われて伊豆の東海岸を旅行した時には、その風景の美しさにすっかり魅了された。これほど海と山と人の生活が溶け合った光景は韓国ではほとんど見られない。海と山は平野によって遠くに隔てられている―そんな大陸的な風景が韓国のものである。旅先で出会った地元の人々からは風景そのままの率直な温かさが伝わってくる。

都会でも山の緑が家々のすぐ近くまで張り出している。それなのに人々はさらに自宅の庭に草木を植える。韓国では人々が暮らす村里に緑があると動くのに邪魔になるという感覚が昔からある。庭に草木を植える家はかなり上流階級に限られていた。しかし日本では普通の人でも普段の生活の中で緑を慈しむのだという。そんな違いも驚きだった。

急に怒り出した八百屋さん

日本に来て最初の一年は、良い日本に感激した時期であった。それは韓国で教えられていた日本の姿とはまったく違っていた。しかし、2年経ち、3年を経て、日本の内部に入っていくようになると、呉さんはしだいに文化や習慣の違いからくる摩擦に悩まされるようになっていった

十条のアパートの近くに小さな八百屋があった。ご主人が親切にしてくれるので、野菜はいつもその店から買っていた。ある日、キムチを作ろうと、その八百屋に白菜を買いに行った。呉さんは店先に積まれた白菜を、一つ、また一つと触って品定めをしながら、「おじさん、今日は白菜をたくさん買いますからね、いいのを選んで下さいよ」と言った。

すると、主人は急に怒り出して、「悪いけど、うちのものはあなたには売りませんよ」。何が気に障ったのか、わけがわからない呉さんが「なぜそんなに怒るんですか」と聞くと、プイと横を向いて「朝鮮人にはものを売りませんよ」。同じようなことが美容院やお寿司屋さんでもあった。ようやくその理由が分かったのは、それから数年後のことだった。

韓国ではものを作る人、売る人を一段下に見る風潮があり、また店の方でもいい加減なものを作ったり売ったりする傾向が強い。そのため買い物をする時に、品質について念を押したり、自ら商品に触って確かめるという事が一般的である。八百屋にいけば「いい野菜をください」というのが、ごく普通の挨拶であり、それが店の人への親しみの表現なのであった。

しかし、日本では八百屋は八百屋なりに、うちでは悪い野菜など売らない、という誇りがある。韓国流の「いい白菜をくださいね」という挨拶は、その誇りを傷つけるのだ。こういう場合は「キムチを作りたいんだけど、どんな白菜がいいかしら」などと、相手を専門家として持ち上げてやることが日本流である。

こういう対人関係の有り様は、右側通行か、左側通行か、という交通規則と同じで、優劣の問題ではなく、一つの文化内の暗黙のルールなのである。左側通行の社会で右側通行をしたらあちこちで衝突する。呉さんが悩んだのは、こういう文化の違いだった。

消しゴム事件

日本人の友だちができて、本格的につきあい始めると、ここでもさまざまな摩擦が生じてきた。たとえば、韓国ではご飯もスープも食卓に置いたまま、スプーンですくって食べるのが食事作法である。お茶碗を手に持って食べるのはたいへん行儀の悪いことである。

それが日本の作法だと知っていても、目の前でそうされると、生理的な嫌悪感を抑えることができない。日本人はなぜそんなおかしな事をするのか、嫌な人たちだ、と思えてしまう。

大学に入ってから、とても気のあう日本人の友だちができた。しかし、その友だちは一緒に勉強していて、呉さんに消しゴムを借りる時に「ちょっと消しゴム、貸してくれる?」と聞くのである。返すときもいちいち「ありがとう」と言う。そのたびに呉さんは「この人は私のことを本当に友だちだと思っているのだろうか?」と不安な気持ちに襲われるのだった。

韓国では親友や家族の間には距離があってはいけない。私の物はあなたの物、あなたの物は私の物、それでこそ親密な間柄と言えるのである。だから友だちの間で「消しゴムを貸して」とか、いちいち「ありがとう」などと言うのは、とても失礼なことなのだ。

呉さんのほうは、友だちの消しゴムが横にあれば、まるで自分の物のように断りもなしに使い、返すときもいちいち「ありがとう」などとは言わない。ある日、呉さんがいつものようにそうしたら、友だちは耐えかねたのか、明らかにムスッとした表情を示した。なぜそんな顔をされるのか、分からないまま、呉さんはいいようのない暗く沈んだ世界に一人取り残された気分に陥ってしまった。

日本人も韓国人も行き違いに悩んでいる

呉さんは大学に通いながら、コンサルタント会社でアルバイトをするようになった。そこでは月に1、2回日本のビジネスマン相手に韓国ビジネス・セミナーを開いており、呉さんは事務局役をやりながら、セミナーを後の席で聞いていることができた。

そこでは日韓の摩擦について話題になる事が多かった。ちょうど呉さんと反対に、日本人ビジネスマンが韓国に行って摩擦に悩むという声がしばしば聞かれた。悩みはお互い様なのだ、という当たり前のことに気づかされて呉さんは嬉しくなった。そのうちに会社からの要望で、日本人ビジネスマンに韓国語を教え始めた。

ちょうどその頃、縁があって、韓国人ホステス数人相手の日本語教室を自分のアパートで開いてみた。一般の学校での教え方とは違って、韓国人が理解しにくい日本人の発想の仕方から教えていくと、同じ年頃の韓国人の女性から教わるという事もあって、よく分かる、と好評だった。

「こんな言葉を使えば、日本人の男性には好感を持たれるのよ。韓国式にこんないい方をすれば、必ず嫌われるわよ」と呉さんが教える。彼女たちは早速、店でそれを実行すると、「なるほど先生の言うとおりだった」となる。その評判がパッと口コミで韓国人ホステスの間で広がった。

昼は韓国人との行き違いに悩む日本人ビジネスマンに教え、夕方は日本人との行き違いに悩む韓国人ホステスを教える。日本人と話しても韓国人と話しても行き違いはだいたい共通する所にあった。日韓摩擦のポイントは、その共通項の解明にあるのだ、という考えが徐々に固まっていった。そして語学教室でそのあたりから教えていくと、日本人ビジネスマンも韓国人ホステスも非常によく理解してくれるのである。まさに生きた文化人類学研究であった。

異なる文化間の摩擦とは、相手が自分のルールに従ってくれない、という所から来る。自分では左側通行が当たり前だと思っているのに、相手が右側通行をするので「なぜこの人は平気で交通違反をするのか」と悩んだり、怒ったりすることになる。それは「違反」なのではなく、相手は違った交通ルール体系に従っているのだ、と知ることが、摩擦を乗り越える第一歩なのであろう。そうしてお互いの交通ルールの違いを知ることがまさに自分自身を知ることにもつながる。

彼女は済州島出身の田舎者で…

平成2年、呉さんは『スカートの風』を出版した。日韓の文化・習慣の行き違いについて、韓国人ホステスの例などを通じて述べた本である。反響は大きく、3ヶ月ほどで10万部を超えるベストセラーとなった。これを機に、あちこちから講演や原稿執筆の依頼が殺到するようになった。

ある時、東京の日本語学校の先生たちの集まりで、一時間ほど講演をして欲しいという依頼を受けた。その場には主催者側が、東大の博士課程に在学中だという韓国人男性を呼んでいた。呉さんの話が終わって、質問の時間になると、その韓国人が立ち上がって、つかつかと前に出てマイクを握った。

みなさん、私は、いままで何も言わずに黙って聞いてきたけど、彼女がどういう人だか知っているのですか。彼女は韓国の軍隊出身なのですよ。

確かに呉さんは高校を出てから、きびきびした女性軍人に憧れ、10倍以上の狭き門をくぐって、教育期間を含めて4年間軍隊に在籍し、その間大学にも行った。しかし、それと呉さんの講演と何の関係があるのか、日本人聴衆はまったく分からなかったろう。この男性が言いたかったのは、軍隊に行くような女はまともではない、ということであった。さらにこう続けた。

彼女は済州島出身の田舎者で、日本に来ても歌舞伎町のホステスたちと仲良くしているような人間だ。そんな人間が話すことを、あなた方は韓国の代表的な意見であるかのように聞いたり、質問したりして、盛り上がっているというのは、いったいどういうことですか?

「紺屋の白袴」

その時、後ろに座っていた一人の日本人が「失礼なことをいうな。おまえ出て行け!」と怒鳴った。韓国人男性は「そっちこそ失礼ではないか、人がせっかく説明してあげているのに怒鳴って」と、怒鳴られた理由がまるで分かっていない

そこで彼は、自分を紹介しますと言って、私は東大の博士課程にいて、有名な○○先生のもとで、これこれの研究をしている、と自慢げにとうとうと述べ立て始めた。これが韓国であれば、一にも二にも彼の輝かしい学歴がその主張の正しさを保証し、だれもが彼の意見を尊重する所だ。

しかし日本ではそうはならない。高学歴だからと言ってその人の言うことが正しいとは誰も思わないし、そもそも「学者馬鹿」などという言葉すらある。会場の日本人たちからは口々に彼への反発の声があがる。しかし、彼はなぜ日本人たちが自分に反発しているのかまるで分からない

異文化摩擦の絵に描いたような事例である。呉さんには、その行き違いが手に取るように分かった。そもそも彼の師事する東大の○○先生は著名な人類学者で、呉さんの『スカートの風』には大変に感動した、立派な本だと誉めて、韓国専門の先生方や学生の前で話をさせてもらった事があったのである。

この男性は博士課程で文化人類学を研究しながら、自分自身では日韓の文化の違いをまるで理解せずに、韓国流そのままで振る舞って、日本人聴衆の反発をかっていたのである。まさに「紺屋の白袴」とはこの事だ。

行き違いを克服した原動力

平成9年4月に呉さんは新宿の高層ビル街にマンションを購入した。呉さんが日本に渡って16年、物書きを職業とするようになって、すでに12冊もの本を出していた。マンション購入は日本への定住の意思表明だった。

呉さんが今までを思い返してみると、日本という異文化社会に飛び込んで、様々な迷路に迷い込み、何度も行き違いに悩んできた。そんな呉さんを救ってくれたのは、「よき人との出会いだった。行く先々で本当にいい人たちと出会え、その人たちが様々な形で呉さんを助けてくれた。

そしてそういう「よき人」たちとの出会いを作りだしたのは、呉さん自身の「よき人」を求める気持ちの強さ、真剣さではなかったか。日韓の行き違いから逃げずに、「よき人を求めて悩みながらも行き違いを直視しその原因を考えてきた。その真剣さが、行き違いを克服する原動力だったのだろう。

現代のグローバル社会では、あらゆる国々や民族との文化摩擦を乗り越えていかねばならない。その「しんどさ」に耐えていくためには、それだけ「よき人」を求める真剣さを持たねばならないのだろう。

文責:伊勢雅臣

image by: Flickr

 

『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』

著者/伊勢雅臣

タイトルとURLをコピーしました