“団塊退職バブル”は来なかった

 「団塊退職バブルがくる!」。こんな気楽なフレーズがささかれていたのは、つい数年前のことだ。2007年から2009年にかけて団塊世代の定年退職がピークを迎え、膨大な人口がシニア市場に参入する。そしてシニア市場が、一気に花開く。これが“団塊退職バブル”の仮説だった。
 団塊以前の高齢者はお金と時間の余裕を持ちながら、今一つ消費意欲に欠けていた。それに引き換え団塊世代は前の世代より消費意欲が旺盛であり、過去にさまざまな消費ブームを巻き起こしてきた実績がある。この点を考慮すれば、退職した団塊世代がシニア市場を牽引するという予測には、一定の説得力があったと言える。ちなみに電通は、「団塊退職による消費押し上げ効果は8兆円」と予測していた。お金も時間も元気もある団塊世代への期待は、非常に大きなものがあったのだ。
 しかしながら、団塊世代のリタイアによりシニア市場が花開くとの予測は、“空振り”に終わった。総務省の家計調査のデータによると、団塊世代退職後(2009年)の60歳代の1世帯当たり消費支出は、団塊世代退職前(2005年)と比べて約6%も減った。ただし団塊世代が加わったことで、世帯主が 60歳代の世帯数は4年前に比べて約10%増加している。だからこの世代の消費が、わずかながら増えていることは間違いない。とは言うものの団塊世代の退職により、シニア世代の消費が大いに盛り上がったと見ることは難しい。
シニアの時代とはいうものの・・・
 60歳以上のシニア世代の人口はすでに3900万人に達しており、30歳未満の若年人口を上回っている。ゆえに今後の消費市場の盛衰が、シニア世代の動向に左右されることは間違いない。
 シニア世代は数が多いだけでなく、“金持ち・時持ち”でもある。実際に1450兆円の個人金融資産の約6割(900兆円程度)は、60歳以上のシニア世代が握っている。そしてシニア世代が、他世代よりはるかに時間的ゆとりを持っていることは、言うまでもないことである。そんなシニア世代が残りの人生を謳歌してくれれば、それが個人消費を活性化する効果は計りしれない。そうなれば景気も良くなり、その結果、現役世代も多いに潤うはずだ。
 しかし残念ながら、シニア世代の多くは消費に消極的だ。日本人の民族性なのか、特にシニア世代には「子孫に美田を残す」的な価値観が強く、自分の楽しみのためにお金を使おうとしない。彼らが持つ900兆円もの金融資産の大半は、預貯金として眠ったままである。
 そこで退職の時期を迎えた団塊世代が、シニア消費を牽引することに期待がかかったのだ。団塊世代の価値観やライフスタイルは、先行世代とは明らかに異なっており、彼らは自分の楽しみのためにお金を使うのではないかと考えられていた。
 団塊世代の名付け親である堺屋太一氏は、著書「団塊の世代」にこう書いている。「『団塊の世代』は過去においてそうであったように、将来においても数々の流行と需要を作り、過当競争と過剰設備を残しつつ、年老いていくことであろう」。堺屋氏の予測通り、団塊の世代は常に消費市場のリーダーであり続けてきた。
 しかし今、団塊世代はリーダーの座を降りつつあるのかもしれない。
キリギリスになれなかった団塊世代
 不発に終わった“団塊退職バブル仮説”の要点は、「今までアリのように働いてきた団塊世代が、退職を機にキリギリスのように消費を謳歌するようになる」ということだった。だが団塊世代は、キリギリスにはなれなかった。
 その理由はいくつか考えられる。第1に団塊世代は定年を迎えたものの、完全に退職したわけではない。実際に60歳を過ぎたばかりの男性の有職率はおおむね80%程度となっており、団塊世代の大半はまだ仕事を続けていると考えられる。
 第2に団塊世代は、過去の退職世代に比べて経済的負担を負っている場合が少なくない。隠居後は子供が養ってくれた過去の世代と異なり、団塊世代のほとんどは老後の食いぶちを自分で賄わなければならない。それだけでなく要介護の老親を抱えていたり、子供に経済的援助をしていたりする世帯も少なくないのが現実である。
 第3に年金制度の脆弱性が明らかになったことで、まだ老い先の長い団塊世代が自衛せざるを得なくなっている点が指摘できる。60歳の平均余命は、男性で 23年、女性で28年まで伸びている。現在の年金制度があと20年以上も維持できると、楽観している人はおそらく皆無であろう。つまり団塊世代を「逃げ切り世代」と位置付けることは、必ずしも適切ではないのである。
 このように現実の団塊世代はさまざまな負担と不安を抱えており、楽隠居できない世代なのである。
企業はシニア市場から逃げている
 シニア市場が盛り上がりを欠く要因は、シニア世代の需要側にのみ問題があると考えるべきではない。シニア市場の開拓を担うべき企業の側にも問題はある。
 日本市場の将来を悲観した多くの企業が、新興国市場の開拓に血眼になっている。企業が有望市場に力を注ぐのは、当然のことだ。しかし日本から逃げ出す前に、企業にはやるべきことがあるのではないだろうか。それはシニア市場の開拓だ。日本のシニア世代は人口が急増しているだけではなく、多額の金融資産を持っている。この市場は新興国市場よりも身近で、豊かで、しかも成長性もある。だが多くの日本企業は、シニア市場に対して及び腰である。
 日本のシニア市場では、医療・介護など、ある意味“後ろ向き”の消費が急拡大している。そのいっぽうで、小売・サービスなどの“前向き”の消費は盛り上がりを欠いている。そして百貨店・テレビ放送などシニア世代を主要顧客とする業界でも、シニア市場の開拓に腰を据えて取り組もうとする動きは乏しい。
 百貨店の主要顧客は団塊世代であり、特に三越などの老舗百貨店や地方百貨店ではその比率が高い。だがその三越も、シニア市場の深耕よりも顧客層の若返りに力を注いでいるようだ。三越は銀座店の増床開店にあたり、「客層を50~60代から、30~40代に広げる」ことを大きな目的にしていた(三越銀座店の増床開店については、第4回レポート「銀座百貨店戦争」を参照されたい)。
 概して百貨店業界では、シニア市場を魅力的ととらえる向きは少ない。確かにシニア世代は消費に慎重であり、並大抵のことでは財布のひもを緩めてはくれない。だがシニア世代の急増および若年層の百貨店離れという市場の流れに棹差して、百貨店ビジネスが生き残っていけるとはとても思えない。
 三越に限らず、多くの百貨店が顧客の若返りを重要課題としている。しかし実際のところ百貨店の「顧客若返り戦略」が、業績の改善につながった例はとぼしい。無理に若者市場を追いかけるのではなく、難しいと言われるシニア市場を切り開くことこそが、百貨店の生き残る道と認識すべきである。
若年層への未練が断ち切れないテレビ業界
 テレビ業界の状況も、百貨店業界と似たところが少なくない。現在のテレビ視聴者の圧倒的多数はシニア世代だ。NHK放送文化研究所の調査データによれば、20歳代の1日当たり平均テレビ視聴時間は、2時間程度にすぎない。これに対して60歳代の平均視聴時間は、4時間を超えている。さらにシニア世代の人口が若年世代よりも大きいことをふまえれば、テレビの視聴率がシニア世代によって支えられていることは明白である。
 にもかかわらずテレビ業界では、20代女性を「F1層」として最重視する“F1神話”が今も健在だ。テレビ業界はテレビから離れつつある若年層を追いかけ、いまだに若者向けの番組をつくり続けている。
 かつてのテレビ業界はトレンディドラマなどで、若年層の消費意欲を刺激するイメージを形作ってきた。そして若者市場をターゲットとするスポンサーの支持が高まり、テレビ業界は多額の広告費を獲得することができた。おそらくテレビ業界は、過去の成功体験が忘れられないのであろう。
 だが時代は変わった。テレビ業界は、かつて若者市場開拓の先兵となったように、今後はシニア市場開拓の役割を担わねばならないはずだ。シニア世代に対し、魅力的なライフスタイルを提案できるような番組をつくることこそが、テレビが生き残る道であろう。
シニア消費が日本を救う!
 前述の通り、60歳以上のシニア世代は900兆円もの金融資産を保有している。だがシニア世代にとって魅力的な使い道が少ないこともあり、この資金の大半は預貯金に滞留している。さらにこの預貯金は国債に形を変え、政府の借金の穴埋めに使われているのが実態である。
 これに関して、筆者が考える今後のシナリオは以下の通りだ。シニア世代が持つ“900兆円”が有効に使われるのであれば、個人消費が活性化し、日本経済は成長する。そして税収が増え、国家財政は破綻を免れる。いっぽうこの“900兆円”が死蔵されたままならば、日本経済は衰退し、税収はますます減少し、国家財政は破綻に至る。その結果、国債のデフォルトにより、虎の子の“900兆円”も焦げ付いてしまう恐れがある。あるいはハイパーインフレにより、 “900兆円”の金融資産が紙くず同然になることも考えられる。
 衰亡の淵にある日本経済にとっては、国民の長年の努力の結晶とも言える個人金融資産こそが、残された「希望の光」と言える。日本経済を再活性化するためには、この“900兆円”に働いてもらう必要がある。
 シニア世代が持つ金融資産を生かす方法としては、シニア世代の消費を促す方法と、生前贈与の優遇などによって若年層への所得移転を促す方法が有効である。両者ともに重要であり、官民が知恵を絞る必要がある。
 このように書くと、伝統的な価値観が根強いシニア世代からは、「無駄遣いによって、国が良くなるわけがない」との反論があるかもしれない。だがシニア世代が人生を謳歌し、そのために良いものを食べたり、良いものを着たり、社交を活発化したりすることは、決して無駄遣いではない。むしろ魅力的な社会の在り方と言えるのではないだろうか。
 そして企業は日本市場を見捨てて新興国に“逃げる”だけではなく、シニア市場を開拓するためにもっと知恵を絞るべきであろう。シニア世代に対して魅力的なライフスタイルを提案し、シニア世代の生活を豊かにする商品・サービスを提供することも、企業の重要な使命であると認識すべきではないだろうか。

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