国際女性デーだからこそ、男性のしんどさにも目を向けよう

国連「UNウィメン」親善大使の女優、エマ・ワトソンさん。『ヴァニティ・フェア』誌の撮影でセクシーな服を着た彼女を「悪いフェミニスト、偽善者」と批判する声に対して「フェミニズムの本質は、女性に選択肢を与えること」と反論しました 。そう、着たい服を着ればいいのです。「女らしさ」の押し付けに憤る人たちが、女性の権利について勇敢に語る女性に、紋切り型の「フェミニストらしさ」を押し付けてしまうのは、残念な事です。

ところで、男性はどうでしょうか。デパートのメンズ服売り場に行けばわかりますが、彼らは女性よりもはるかに選択肢が少ないですよね。女性はスカートもパンツも穿けますが、男性がスカートを穿くと「女装」と言われます。男性にも、いろんな服を着たいと思う人はいるでしょう。なのに、「男なら、スカートを穿きたくないはずだ。穿きたいと思うのは、”普通”じゃない」と言われてしまうのです。

エマ・ワトソンさんは、「男の子が女性のヒーローに憧れてもいい」とも言っています。昨年は女性たちが主人公の映画「ゴーストバスターズ」が公開されましたし、アイアンマンが世代交代して15歳の少女の「アイアンハート」になると発表されるなど、ヒーロー像もずいぶん変わりつつあります。

でも、別に超人的な力がなくても、子どもたちのヒーローにはなれますよね。そう、例えば母親だって。

そこで中3の長男に「私は君のヒーローだろうか?」と訊いてみたら、「母親」と「ヒーロー」の組み合わせに、やや混乱していました。私がパソコンを前に熱心に仕事をしているのを見て、すごいなあとか、自分も情熱をもてる仕事がしたいなあと思うそうです。でも、ママはヒーローか?と訊かれると、僕は男だし・・・と困ってしまったようです。

私と夫は息子たちに、人としてフェアであれとはよく言いますが、男らしくしろとか、強い男になれと言ったことは一度もありません。けれど彼らの頭の中には、友達との会話やメディアを通じて「男にとっての憧れは、男」という回路ができてしまっているようです。母親がヒーローでもよくない?私はそのつもりなんだけど!と話したら、それはそれでちょっと嬉しそうにしていました。

で、ふと思ったのです。ヒーローは男だと思い込んでいるのは、男性だけではないのかも。もしかしたら女性も、男性に「ヒーローであれ」と、無意識のうちに男らしさを押し付けているのかもしれない、と。ーーーそこで3月8日の国際女性デーに、男性のしんどさについても考えてみたいと思います。

■夫・息子に理想像を押し付けていないか

父親は息子のヒーローであらねばと、プレッシャーを感じている男性は多いでしょう。女性も、そうであってほしいと願うあまりにかえって夫の欠点が目につき、夫婦喧嘩の腹立ち紛れに、つい息子に「パパみたいになっちゃだめよ!」などと言ってしまうことがあるかもしれません(慚愧に堪えませんが、私はあります)。さらに絶望が深くなると、夫にヒーロー役を期待することを諦め、息子に自分の理想の男性像を教え込むことも。

かつて、日本が経済成長を続けていた頃の子育てでは「いい学校に入っていい会社に入って、お父さんより、もっと稼げる人になりなさい」というのが、母親が息子に託したヒーロー像でした。今、その昭和生まれの男の子たちが子育て世代になり、自分がママのヒーローになれなかったことを、うまく受け入れられずにいます。もう右肩上がりで稼げる時代ではなく、共働き世帯が多数派という現実に直面して、刷り込まれたヒーロー像と、妻から求められる夫像とに大きなギャップが生じているのです。

しかも厄介なのは、そんな妻たちも母親から「稼ぎのいい男が頼れる男よ」と聞かされているものだから、夫に昭和版と平成版の2つのヒーローを要求してしまうのです。よく稼ぎよく出世して、よく家事をして育児もしてね、と。男は強者なんだし、これくらいの無茶ぶりはクリアしろと思ってしまうのですね。でもそれ、本気でやったら死んじゃいます!(それを私はワンオペ育児でやってるんだよ!こっちが死ぬわ!という女性の怒りも、もっともです)。

なんだかしんどい今どきの夫婦ですが、夫に苛立ちを募らせた妻たちが、姑とは違う形で息子に望みを託す動きもあります。主婦に人気の雑誌『VERY』の20周年記念号では、ファッション的にイクメンを気取るだけで、育児や家事を本気でシェアしようとしない夫に見切りをつけ、「男の子の育て方を考えよう」という提案がなされています。

「男は仕事、女は家事」というジェンダー観を変えるべく、ママたちが立ち上がったのですね。親世代の価値観と、それを今なお支えている社会構造に対する長期戦のレジスタンスです。子育てを通じて、固定化された男女の役割を変えていこうという試みには大いに共感します。私も息子たちには、両親が私に与えたのとは違うメッセージを伝えています。

ただ、ママたちは大きな落とし穴に気をつけなければいけません。息子を自分好みのヒーローに育てて、夫の身代わりにしてしまうのです。違う違う!あなたが、息子のヒーローになるのです!・・・でもそれって、どうやって?とイメージがわかないかもしれませんね。

■「男はこういうもの」という無意識の偏見

昨年10月、ミシェル・オバマさんがニューハンプシャーで行った演説は、とても印象的でした。彼女は、トランプ氏の女性差別的な発言を激しく非難しています。注目すべきはその中で、「そうではない男性」がたくさんいることを強調していることです。あれは男同士ならよくある会話だろう、と考えるのは男性に対する偏見であり、多くの女性差別的でない男性の存在を無視することでもあるとする彼女の視点は、至極まっとうです。そして男性にも連帯を呼びかけ、断固とした態度で差別主義者にNOと言っています。

彼女の言葉は、「男性=大なり小なり性差別的な人たち、”私たち”ではない人たち」と考えてしまいがちな女性に、ハッと気づきを与えました。差別の問題を女性の怒りにとどめず、あなたも当事者であると男性に呼びかけた彼女の視点こそ、いま広く共有されるべきものではないかと思います。私たちは、同じ怒りをシェアできるのです。

あの演説を聞いて、彼女のような人になりたい、と思った子どもはたくさんいるでしょう。痛みへの共感と、フェアな視点と、怒りをポジティブな力に変える知性は、ヒーローに最も必要なものだからです。性別や人種や年齢や立場が違っても、彼女の言葉に打たれ、勇気をもらい、自分もあの人のようでありたいと思った人は、世界中にいるはずです。

ええっ、ミシェルたれなんてハードル高すぎ!と思ったかもしれませんが、べつに高学歴で演説が得意でなくても、誰にでもできることです。人を性別で判断しない。男ってね、女はね、という雑な言い方をしない。子どものクラスの集合写真で「どの女子が一番可愛いか」をうんぬんしない、駆けっこの遅い男の子をバカにしない。男の子らしく/女の子らしくしなさいではなく、人としてどう振る舞うべきかを伝える、など。女性が男女二項対立の発想から自由になり、男性に男らしさを押し付けるのをやめれば、子どもたちが女性のヒーローに出会うチャンスは、うんと増えるでしょう。

女性が女の典型を強いられて苦しむことがあるように、男性も男であれと言われて、息苦しい思いをしています。最近は、日本でも「男性学」が脚光を浴び始めて喜ばしい限りですが、男性に「男らしさ」を押し付ける社会である限り、女性にはその対称である「女らしさ」が課されることを忘れてはなりません。私たちは、「らしさ」に苦しむ仲間なのです。

女性は、男性は経済的にも社会的にも強者なのだから「年収600万未満の男はお断り」とか「おやじハゲ、臭い、邪魔」とか「もっと稼げ」とか「定年後は粗大ゴミ」とか言っても構わないと考えてこなかったでしょうか。それが結局、自分たち女性を生きづらくしているのかもしれません。追い詰められた人が最も手軽に強者になる方法は、自分よりも弱い人を支配し、自由を奪うことだからです。

私は自分が片働きで家族を支えるようになって初めて、もしそんなことを自分が言われたらと想像しました。職場で散々な目にあって疲れ切って帰宅したら「小ジワだらけでみっともねえ」と笑われ、「ママ、くさいしうざい」と言われ、「なんでもっと稼げないの?」「仕事やめたら単なる生ゴミだからね」とか言われたら、私は間違いなく壊れるでしょう。その上「女なんだから耐えろよ」とまで言われたら、ふざけんな!と暴れるかもしれません。

職場でもそれ以外の場所でも「ひどいことに耐えろ、文句を言うな、それが当たり前だ」という圧力を受け続けたら・・・。男たちは、どうやってその理不尽さに耐えたのだろう。そう考えた時、中高6年間、 痴漢(言うまでもなくこれは性暴力です)と戦いながら乗った満員の通勤電車に充満していた空気・・・あの深い恨みにも似た負のエネルギーの正体が、少しわかった気がしたのです。

日本では、どんな過酷な労働環境でも文句を言わず、組織の利益のために私生活をすべて犠牲にして働く「男らしい」男と、そんな男らしい男を讃え、身の回りの世話をすべて引き受け、どれほど身勝手なことをされても聖母のような慈愛で許し、文句ひとつ言わずに家事と育児を一人でやりきる女らしい女性が、美しい夫婦像としてかつてヒット曲にも歌われました。懐かしいですね、『聖母たちのララバイ』。企業戦士と専業主婦の歌です 。

私も子どもの頃に歌詞を諳んじて随分歌ったものですが、大人になってある日シャワーを浴びながら歌っていたときに「これ、随分な歌詞だな!」と気付いた次第。まあ、楽曲に罪はないのでそれはさておき・・・そんな世の中でハッピーなのは、滅私奉公のオトコ社会で特権を手にした、ごく一部の人だけではないでしょうか(注・それはなにも男性とは限りません)。

いまや、女VS.男の対立ではないのです。従来の「あるべき男女モデル」を好都合だと思っている人と、押し付けられて疲弊している人との理不尽な関係が、職場や家庭のいろいろな場面で軋みを生んでいます。

女性が働きやすく、生きやすい世の中とは、性別に関係なく、誰もが人間らしく生きられる世の中であり、働きながら人生を楽しむとか、働きながら家族と生きるという当たり前のことが可能な世の中です。家庭内ではつい「男は仕事ばかり!」「俺だって早く帰りたいけど無理なんだよ!」と責め合ってしまいがちな男女ですが、「なんでこんなにしんどいのか?」と一緒になって考えてみると、それは目の前の配偶者のせいではなく、今の働き方の仕組みとか、これまで常識とされてきた男女の役割に問題があるとわかります。

■「輝くロールモデル」なんていらない

もちろん、男女の不平等はなくさなければなりません。なんと言っても日本は、世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数のランキングでは、前年よりもさらに10位も順位を落として144カ国中111位男女の賃金格差はOECD加盟国中でワースト2位という、女として生まれるには最も不幸な国の一つですから、制度面で女性を支援しなくてはいけないのは自明のこと。女性管理職の登用や国会議員のクオータ制(男女格差をなくすために、一定数を女性に割り当てる制度)も必要でしょう。

クオータ制というと決まって「人材が少ないのにそんな制度を作ったら、凡庸な女が登用される。それはかえって働く女性の評価を下げる」という女性がいます。性別だけを理由に冷遇されている女性がいることには想像が及ばず、「私は男社会にちゃんと適応した。今のままでも、優秀な女性なら評価されるはず」というのはあまりにも視野が狭い意見です。とびきり優秀か、とびきり珍しい存在でないと、女性が管理職や議員になれない現状がおかしいのです。無能な男性管理職なんて掃いて捨てるほどいますが、それをもって誰が「男は全員無能だ」と考えるでしょう?クオータ制は「凡庸な女が性別だけを理由に優遇される制度」ではなく、女性の管理職や議員にも、男性の管理職や議員と同じように、人材の幅をもたせる取り組みです。

男性が職場の女性を褒めるときに「彼女は優秀でね、中身オトコだから」ということがあります。キャリアを積んでいる女性や、やる気に溢れる若い女性の中には「私、中身オトコですから」と自ら誇らしげに言う人もいますね。でもそれ、「私は大多数の無能な女とは違うんです」っていう女性蔑視的な本音がだだ漏れで、なんの自慢にもなってませんから!男性も女性も、中身は人間です。彼女たちが得意げにオトコと呼んでいるものの正体は、非人間的な働き方を強いるシステムと、それを肯定する価値観です。内なるオトコを誇ることは、女性への偏見だけでなく男性への偏見(そのシステムに適応して成功している男性しか、男としてカウントしていないという事実)も露呈しているのです。

「働く女性」とひとくくりにされることが多いですが、当然ながら十人十色です。正規・非正規という雇用形態の違いだけでなく、どんな働き方がしたいかも人それぞれ。キャリアを追求する女性がぶつかるガラスの天井の存在はよく知られていますが、最近は女性を分断する「ガラスの床」の存在も指摘されています。

電通総研の調査に表れているように、働いている、もしくは再び働きたいと思っている女性の全員が管理職になりたいわけではないし(私も会社員だった頃、管理職になることには全く興味がありませんでした)、大半の女性は輝く女性のロールモデルなんかいらないと思っています。「あの人みたいになりたい」ではなく「いまの私のまま、働きやすく生きやすい社会にしてくれよ」が本音なのです。バリバリ働いて役職を目指す人がいる一方で、ゆるく働くぐらいがちょうどいいという人がいるのも当然でしょう。

同じように考えている男性も、きっとたくさんいると思います。出世なんて興味ないと思っている人もいるはずです。でもそんなことを口にしたら、職場からも家族からも「ダメ男」のレッテルを貼られてしまう。女性以上に、日本の男性の働き方や生き方には選択肢がありません。女性を自由に!と言うだけでなく、声無き多数派である不自由な男たち「しんどいと言っていいんだよ」と言うことも大切です。彼らが声をあげれば、多様な生き方が可能な世の中を望む当事者の数が、劇的に増えるのですから。私たちは、非人間的な働き方やジェンダーの押し付けに対して、一緒にNO!と言えるのです。

女性は差別を受けてきた当事者であり、排斥され沈黙を強いられている人々のシンボルでもあります。辛い思いをしている人に、あなたは怒っていいんだよ、と手を差し伸べ、励ますことができるのは、自ら痛みを知っているからこそ。アメリカの大統領就任式の翌日に行われた数百万人規模といわれるウィメンズ・マーチに参加したのは、「怒れる女性とそのアライ 」ではなく、女性に対する暴力や差別を生み出す価値観に対してNO!を突きつける、様々な立場の人たちだったのではないでしょうか。

まだまだ男性優位の社会で、自分の性別を意識しないではいられない状況に置かれている女性たちは、ときとして、この問題は女性だけのものだと考えてしまいがちです。けれど女性に限らず、誰も性別を理由に不利益をこうむったり、生きづらい思いをしてはならないのです。その視点があれば、意外にも自分のすぐ隣に、同じしんどさを抱えた見慣れた顔を・・・寝起きでヒゲが伸びているかもしれませんが・・・見つけることができるかもしれません。

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