変化を嫌ってきた日本人にコロナ禍が教えてくれたこと/鴻上尚史

―[連載「ドン・キホーテのピアス」<文/鴻上尚史>]―

◆正解のない時代に突入、コロナ禍に起きた、前向きな“変化”とは

『同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書)は、おかげさまで、発売一週間で三刷りが決まりました。

 ありがたいことですが、背景を思うと、単純に喜べないと感じます。

 コロナに感染するより、「あいつ、コロナに感染したんだぞ」と「世間」から後ろ指を指されることの方が怖い、という状況になっていると感じます。

「世間」という日本独特のシステムが狂暴化して、自粛警察などの「同調圧力」が強まっているというニュースを毎日、聞きます。

 ただね、コロナによって悪いことばかりかと言うと、ひとつ、僕は前向きなことがあると思っています。

 それは、私達日本国民が、自分達の頭で必死に考えるようになったんじゃないかと思っているのです。

 僕は、自分に関係のある仲間や集団を「世間」と呼んでいます。「世間」の反対語は、自分と関係のない人達でできた「社会」ですね。

「世間」に生きている日本人は、一般的に変化を嫌い、大きなものに頼ります。それを「所与性」と呼ぶと、僕は何度か原稿に書いています。

 とりあえず、「大きなもの」に頼っていればいいんだという感覚です。

◆この人は自分の味方なのか敵なのか

「自我」というより「集団我」です。

 仲間とか集団の決定を自分のアイデンティティーにするという傾向です。

 その結果、自分の「世間」に属する人は味方で、それ以外「社会」の人は敵、という明確な分類をする人が多くなります。

 相手が何を言っているのかではなく、この人は自分の「世間」なのか「社会」なのか、つまり味方なのか敵なのかを決めてから対応するようになるということです。

「世間」つまり身内なら、少々おかしなことを言っていても「間違うこともあるよ、人間だもの」と許し、論理的に正しいことを言っていても「社会」つまり敵だと思ったら「人間は理屈だけで動くんじゃないんだよ。情だよ情」と反発する、ということです。

 相手の発言内容ではなく、味方か敵かが一番大事なことなのです。

 これは自分が考えているのではなく、自分の属している「世間」に判断を任せているということです。

◆何が正しいと思うか、自分の頭で考えること

 そうするには理由があります。

 検察庁法改正案の審議が行われた時に、芸能人が反対を表明したら、「もっと勉強してから発言しろ」という言い方が一部に広がりました。日本人は真面目なので、この言い方に納得してしまいます。

 でもね、例えば、休業補償の財源として国債を、と主張するMMT(現代貨幣理論)に対して、経済学者の中には賛成も反対もあるわけです。これをちゃんと勉強していたら、たぶん何年も何十年もかかります。それまで、発言できないことになります。でも、現実は進みます。

 PCR検査の大幅な拡大は意味がないと感染学者が言います。一方、ニューヨーク州では希望者全員に無料で検査が受けられ、イギリスは国民全員に定期的にPCR検査を行うことを決定しました。

「GO TO トラベル」を菅官房長官は、「やらなかったことを考えたら大変なことになっていた」と答え、岩手県知事は、「失敗と言っていいと思う」と答えました。

 政府に対して明確な信念、熱烈支持か断固批判かの意見がある人以外は、今まではなんとなく「大きなもの」の判断に身を任せてきました。

 一つ一つ自分で判断するのは大変だし、勉強不足だし、「大きなもの」に任せて今までなんとかなってきたからです。けれど、一人一人が「自分は何が正しいと思うか」を考えろと、コロナは私達に突きつけたと僕は思っています。

◆コロナ禍を生き延びる道

 世田谷区がPCR検査を保育士や介護士2万人に無料で実施するという決定をどう考えるのか。意味があるのかないのか。子供を保育園に通わせている人とそうでない人では判断が分かれるかもしれません。

「GO TOトラベル」に東京を追加する動きをどう思うのか。

 今まで「世間」の判断に任せて来た人は、どこかに正解があると思いがちですが、私達は未曾有の事態に直面しているのです。誰にも絶対の正解なんて分からないのです。

「世間」ではなく、自分の頭で考えることがコロナ禍を生き延びる道ではないかと僕は思っているのです。

―[連載「ドン・キホーテのピアス」<文/鴻上尚史>]―

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