このままでは「新聞崩壊」もありうる
新聞業界が、かつてない部数減に襲われている。日本新聞協会のデータによれば、2000年に5370万部を数えた新聞全体の発行部数は、20年に3509万部まで落ち込んだ。この20年で34.6%もの減少だ。もはや、新聞は生き残れないのだろうか。
私は2013年に「2020年 新聞は生き残れるか」と題した本を出版してから、新聞の将来に強い危機感を抱いてきた(https://amzn.to/2MTzI52)。後で紹介するように、高橋洋一さんとのYouTube番組でマスコミ問題を取り上げた機会に、久しぶりに日本新聞協会のサイトを見て驚いた。
減少どころではない。まさに崩壊一直線の状態になっていたのだ。冒頭に紹介した数字は、一般紙とスポーツ紙の合計である。一般紙のセット部数で見ると、もっとひどい。セット部数とは、朝夕刊をセットで購読している部数であり「もっとも新聞に親しんでいる平均的な読者像」と言える。
セット部数は2000年に1818万部を数えていたが、20年には725万部に落ち込んだ(https://www.pressnet.or.jp/data/circulation/circulation01.php)。実に、60%もの減少である。私は、この数字が実態を示していると思う。電車の中で新聞を読んでいる人を見かけなくなって久しいが、宅配でセット購読している読者は半分以下になっていたのだ。
スポーツ紙の落ち込みも一般紙と同様だ。2000年には630万部あったが、20年には263万部に減った。こちらも58%の減少である。
高橋さんは番組の中で、発行部数の将来予測をグラフで示した(高橋さん自身のコラムでも紹介している。記事はこちら、https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80030)。
それによると、20年に5370万部を数えた総発行部数は、ずっと減少を続けて、31年にはゼロになる。総発行部数は1世帯当たりの部数×世帯数で求められるが、興味深いのは、1世帯当たりの部数が年々、加速度を増して減っていく点だ。
1世帯当たりの部数は2000年に1.13部だったが、20年には0.61部になった。世帯数は核家族化を反映して増えているが、新聞をとらない世帯がそれ以上に増えているので、部数の落ち込みが止まらない。若い世代は結婚して世帯をもっても、新聞をとらないのだろう。Photo by iStock
「新聞がゼロになる日」は、本当に来るのだろうか。希望的観測だろうが、私は「いくらなんでも、それはない」と思いたい。だが、番組で議論したように「2000万部、あるいは1000万部になる日はあるか」と問われれば、その可能性は十分にある、言わざるをえない。
高橋さんの予測グラフで、2000万部になるのは2025年である。そうなったら、新聞はどこも青息吐息に違いない。当然、潰れるところや合併を模索する社も出てくるだろう。これはいまから、わずか5年後の話である。1000万部になるのは2028年、8年後である。つまり、新聞業界は10年を待たずに、激変に見舞われる。
新聞業界で働く人は2020年で、記者が17000人、その他の従業員が37000人だ(https://www.pressnet.or.jp/data/employment/employment03.php)。彼らにリストラの嵐が襲うのは、避けられない。いや、それはすでに始まっているが、一段と加速するはずだ。
差別化できていない各紙の記事
どうして、こんな状態になったのか。詳しくは番組をご覧いただきたいが、高橋さんによれば、根本的な理由は「新聞印刷という技術と宅配性という制度」が陳腐化したためだ。速報性でも広告集めでも、利便性でもネットに負けたのである。
ちなみに、新聞広告費は1999年に1兆1535億円に達していたが、2019年には4547億円に減った(https://www.pressnet.or.jp/data/advertisement/advertisement01.php)。こちらも、セット部数と同じく60%減だ。スポンサーは新聞を離れて、ネットに移っていった。昨年9月、菅義偉氏の自民党総裁選勝利を報じた読売新聞の号外[Photo by gettyimages]
新聞が死にかかっているのは、もはや現実である。では、そこで働く記者たちの仕事もなくなるのだろうか。私がもっとも関心があるのは、そこだ。だが、高橋さんと議論しているうちに、残念ながら、彼らの将来にも悲観的にならざるをえなかった。
なぜなら、いま新聞記者がしている仕事の大半は、どれも似たりよったりで「どうしても、その記者でなくてはならない」ような仕事は、ほとんどないからだ。彼らの大半は、同じ記者会見に出て、同じ資料をもらって、同じような記事を書いている。
当然、どの新聞を見ても、似たような記事で埋め尽くされている。そんな記者と新聞が、社会で必要とされるわけがない。読者から見れば、せいぜい1人か2人の記者(1紙か2紙)がいれば、十分なのだ。同じアイスクリームは、5種類も6種類もいらない。
なぜ、こうなったかと言えば、最大の理由は、言わずと知れた「記者クラブ制度」である。役所に記者クラブが存在する根本的な理由は「役所が記者をコントロールするのに便利だから」である。だが、記者の側もいつしか、飼い慣らされることに慣れてしまった。記者クラブから、同じような記事が量産されている。
もちろん、社によって政治的な左傾斜や右傾斜はある。それが個性と言えなくもないが、残念ながら、左傾斜組は勝手な思い込みと政治的宣伝が多く、信頼を失ってしまった。その典型が、慰安婦問題やモリカケ問題などで誤報と虚報を連発した朝日新聞である。
もともと似たような記事が多いうえに、独自ネタと言えば、思い込みのストーリーありきでデッチ上げたフェイクニュースばかりとあっては、読者が離れていくのも当然である。朝日に限らず、毎日新聞や、私が長年勤めた東京新聞も似たようなものだ。Photo by iStock
新聞記者に残された活路
そうだとすれば、記者と新聞が生き残る鍵もそこにある。
まず、記者は「自分でなくては書けない記事」を書けばいい。べつに、媒体は新聞でなくてもかまわない。ネットでもSNSでも、自分にしか書けない価値ある記事を書き続けていれば、そのうちに「カネを払っても読みたい」という読者がついてくるかもしれない。
そうなれば、媒体に縛られる理由もなくなる。フリーランスの記者として、自分が媒体を選べばいいのだ。私は東京新聞の論説委員になった直後からそうやって、多くの媒体に書き続けてきた。いまはなき『月刊現代』に初めて署名記事を書いたのは、22年前だ。
記者はそうやって(数はごくわずかだろうが)生き残れる可能性がある。だが、新聞はどうか。残念ながら、新聞は技術と営業基盤の陳腐化に加えて「その新聞にしかない」個性を出すのが、難しい。
先の3紙は政府批判が売り物のつもりだろうが、多くの読者はウンザリしている。取材の中身も批判のレベルも低いからだ。となると、新聞本体では生き残れず、不動産業で食っていける社だけが、かろうじて赤字覚悟で新聞を発行する状態になる可能性が高い。
ただ、地方紙は別かもしれない。彼らにはお悔やみ欄をはじめ、どうしても地域に不可欠な情報を提供できる強みがある。米国の新聞業界も地方紙が中心だ。ただ、情報技術(IT)の活用は不可欠である。たとえば、携帯電話による地域情報の提供などは、もっと進化させる余地がある。
「自分にしかない強み」があるかどうか、が生き残りの条件になるのは、私や高橋さんも同じだ。高橋さんは近く公開する番組の後編で「これが自分にしかできない、絶対の強み」を公開している。私は前編でチラリと見せた。全部、公開してしまったら、自分で自分の首を締めてしまう(笑)。
現役の記者さんはじめ、ご関心の向きはぜひ、番組をご覧いただきたい。ただ、番組を見たからと言って、彼らもすぐ応用できるとは限らない。おそらく無理だろう(笑)。記者たちの不勉強は、業界に40年以上いた私が一番良く知っている。 2月10日に公開した「長谷川幸洋と高橋洋一のNEWSチャンネル」は、本文で紹介したように、高橋さんと2人で新聞の将来を議論した。これは前編で、後編も近く公開する。