子育て世代がぜひとも知るべき 「教育経済学」を紹介しよう

■教育をエビデンスで語る

ビジネスパーソン、特に、学齢以下の子供を持っておられる方に、二重、三重の意味で有益な新刊本を一冊ご紹介しよう。慶應義塾大学総合政策学部准教授で教育経済学がご専門の中室牧子氏の新著『「学力」の経済学』(ディスカバー・トゥエンティワン)が大変素晴らしい。

教育は多くの論者の関心を集めるテーマだが、少なからぬ意見やコメントが、客観的な根拠抜きに、論者の個人的な経験や決めつけから語られることの多いテーマだ(その悪弊に筆者も無縁ではないと自省する)。

こ の本は、終始一貫して、教育を客観的なエビデンス(実証的証拠)に基づいて語ろうとする、教育経済学の成果を紹介する啓蒙書だ。しかし、この本が素晴らし いのは、単に学術的成果の紹介にとどまらず、子供の学力・将来収入・幸福度などを改善するにはどうしたらいいか、教育制度をどう改善したらいいかといっ た、読者が切実な興味を持つ目的を設定して、これにエビデンスをベースに具体的に答えていることだ。

加えて、エビデンスの解釈に当たっ て、データにおけるサンプル・バイアス(調査対象の偏り)を除外する工夫や、「相関関係」と「因果関係」をどう区別するか、といった問題を丁寧に説明して くれている。市場調査や社員研修の方法など、ビジネスの問題を処理する上で重要な考え方やテクニックを学ぶことが出来る。

情報感度のいい 会社は、今後、ランダム化比較試験に近い小規模な実験を、研修、採用、マーケティングなどの現場で小まめに行い、エビデンスを蓄積しながら経営的意思決定 を行おうとするだろう。教育経済学で使われる一連の方法を、企業経営に役立てないのは余りにももったいない。

■最も効果的な「ご褒美」のあげ方

子 供の学力をどうやったら上げることが出来るのかは、子供を持つ親にとって切実な関心事だ。「ご褒美で釣るのはやっていいことなのか?」、「子供を褒めて育 てるべきか?」、「ゲームやテレビは有害か?」、「同クラスの子供や友人関係は子供に影響するか?」といったテーマに納得の行く回答が欲しい親は少なくな かろう。読者の中にもいらっしゃるのではないか。

詳しくは、是非「『学力』の経済学」を読んで欲しいが、簡単に言うなら、先ず努力の後に直ぐ渡すご褒美は効果がある(行動経済学の「双曲割引」で説明できそうだ)。

但し、ご褒美は、本を一冊読む、二時間問題集に取り組む、といった「努力」に対して与えるべきであって、「次の試験の成績が良ければ、お誕生日に○○を買ってあげよう」といった成果にリンクしたもの、ご褒美の時点の遠いものは効果がないという。

勉強の仕方を知らない子供に試験の点数だけを求めても、せいぜい試験日に集中又は緊張するだけで、学力そのものを上げる勉強にはつながらないので、効果が乏しいということのようだ。

これは、ビジネスパーソンのモチベーション・アップにも関連するのではないか。どのように努力したら成果が上がるのかを十分教えずに成果にリンクした報酬を強調しても、競争システムとしてフェアではあるかもしれないが、より良い結果につながらない場合がありそうだ。

また、子供の褒め方にも注意が必要らしい。効果的なのは「努力したこと」を褒めることであり、「頭がいい」ともともとの能力褒めると、むしろ意欲を失い成績が低下するのだという。

一 般に「褒めて育てる」という考え方があり、子供を褒めて自尊心を高めると、学力も高まるのではないかという考えを持つ親は多い。しかし、中室氏によると、 自尊心を高めることが学力向上につながるのではなく、学力が向上した結果自尊心が高まるというのが正しい因果関係の方向であり、褒めすぎはむしろ有害で 「実力の伴わないナルシストを育てる」と手厳しい。

この点も若手社員の教育に役立ちそうだ。「切れる」・「出来る」と素質の良さを讃えるの ではなく、「もともと出来るのに、さらに努力して向上するところが何より素晴らしい!」と褒めるのがいいようだ。面倒くさいと思う無かれ。上司たる者、そ れで効果があるなら、やってみたらいいではないか。

子供でも若手社員でも「努力によって能力は伸ばすことが出来るし、自分は努力することができている」と思えるように、勉強や仕事のプロセスを設計して、適当な報酬(賞賛も含む)を与えることが有効のようだ。

ク ラスの学力レベルや、子供の友人関係が及ぼす影響も、親には気になるところだろう。簡単に言うと、所属するクラスの平均点が上がると子供の点数は伸びる傾 向があるが、超優秀な同級生が加わっても、刺激を受けて点数が伸びるのはもともと点数の良かった子供たちだけらしい。能力が離れすぎたライバルは刺激にな らないのだ(これも会社の世界にありそうな現象だ)。

一方、負のピアエフェクトともいうべき問題児の悪影響は顕著であるようだ。中室准教授は有力な対策として「思い切って引っ越し」を挙げている。孟母三遷の防御版という感じだが、ビジネスパーソンの場合は、悪影響を受けそうな職場からの転職がこれに相当する対策だ。

持ち家にしてしまうと身軽に引っ越しすることが難しくなる場合がある。子育て時代には、賃貸暮らしがいいのかも知れない(ちなみに筆者はそうしている)。

■非認知的能力の重要性

子 供の教育にいつ投資(お金も時間や努力も含めた資源投入)を行うのがいいかについては、教育経済学者の間では早いほど良いというのがコンセンサスであるら しい。丁寧な幼児教育を行う子供群と、そうでない子供群を抽選で分けて(ランダム化比較試験!)、その後の効果を40年以上追跡した有名な調査によると、 幼児教育に手を掛けたグループは、6歳時のIQ、19歳時の高卒率、27歳時の持ち家率、40歳時の所得が何れも有意に高く、47歳時点までの逮捕率は低 かったという。

教育は早い時点で行う方が、その効果を長く使えるという意味でも、早期教育が効果的なのだ。

筆者は、田舎出 の(北海道出身である)、試験だけが少し強かったB級秀才(東大には現役で楽に入るが、東大の理科Ⅲ類に入れるほどではない程度の試験秀才)だったので、 自分の経験から子供は大学入試までのどこかの時点で2年くらい頑張ればいいだろうと思いがちなのだが、エビデンスの語る一般論は異なるようだ。また、早期 教育を受けていれば、筆者は今よりも成功する立派な人物になっていた可能性があるということだ。

■「4つの躾」で年収が86万円アップする

ち なみに幼児教育の効果は、学力やIQよりも、「自制心」、「遠いゴールに向かって努力できる能力」、「他人に共感する能力」のような「非認知的能力」に於 いて継続的に表れていて、これが将来の高所得や幸福感の源泉になっていたという。幼児教育を施されたグループのIQは、6歳時点で有意に高かったものの、 8歳の時点では差が無くなっていたという。

確かに、会社生活では「出世には、IQよりも愛嬌が大事だ」などといわれるように、「非認知的能力」の重要性は大きい。個人の能力に関連する部分では、計画を立てて、行動しては記録して、達成度を自分で管理できるような、行動習慣が重要であるようだ。

読者が(筆者もだが)こうした習慣を若年期に養ってこなかったとすると残念に思うかもしれないが、諦めるには及ばない。中室先生によると、非認知的能力は成人後も「可鍛性」があるという。つまり、これから努力で改善できるものらしい(信じよう!)。

教 育経済学の多くの成果は海外の実験で得られたものだが、日本の研究結果でも、子供の頃に躾(①嘘をついてはいけない、②他人に親切にする、③ルールを守 る、④勉強する、の4点)を受けた者は、受けなかった者よりも平均年収が86万円高いといった報告があるという。子供には、早くから手を掛けるべきである ようだ。

「『学力』の経済学」は、少人数学級の効果(効果はプラスだが、費用対効果はあまり良くない)、平等主義的な児童の扱いの効果(も ともと能力は平等なので出来ない人は努力が足りないのだと感じて、他人に対する思いやりが欠けるようになることがあるようだ)など、教育政策に関わるテー マのエビデンスを紹介するが、最後に取り上げる大きなテーマは教師の質だ。

教師の質が生徒に与える効果は相当に大きい。米国の調査結果だが、小中学校の教師の能力下位5%(適切な測り方が存在する。前掲書参照)の教師を平均並みの教師に変えることで、生徒の生涯収入の現在価値は2500万円も異なるという。

■教師の質はどう担保するのか

それでは、教師の質をどうやったら上げることが出来るのかだが、これがなかなか難しいようだ。ボーナスなど褒美で釣っても効果がないし、教員研修にも有意なプラス効果が認められないという。

しかも、教員免許制度には教師の質を担保する効果が認めらないのだという。無免許のボランティア教師が免許を有する教師と同等あるいはそれ以上の効果を上げる。また、免許を持っている教師の質のばらつきは非常に大きいのだ。

経済学的には、既存の教師を改善する試みよりも、有能な人物に教師になって貰う上での参入障壁を解体すべく、教員免許制度を廃止ないし大幅に緩和することのようが有望であるようだ。

生 徒が教師に対してそうであるように、ビジネスパーソンは上司の影響を強く受ける。上司の良し悪しで生涯収入が千万円単位で違うことが十分あり得ると実感さ れるビジネスパーソン読者は数多いのではないか。そして、筆者の拙い経験から思うに、良い上司あるいはマネージャーというものも、育てたり、改善したりす ることが難しいものではないか。

中室准教授は、「良い教師」とはどのようなものであるのかについて、研究を進められるようだ。この研究の成果には大いに期待したい。良い教師の採用方法や養成方法は、そのままに近い形で良いマネージャーの採用・養成に使えるかもしれない。

と ころで、最後に一つ、素朴な疑問を告白しておきたい。「教育経済学」が、客観的なデータに基づくエビデンスで教育を考える極めて納得的な学問の方法論であ ることは分かった。それでは、「経済(学)」と付かない「教育学」とは一体何を内容とする学問なのだろうか。エビデンスに基づかない雑多な精神論の集まり でないことをただ祈るばかりだ。

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