“安い服”にこだわり続ける日本人の残念さ

日本人は、流行の服が安く手に入るファストファッションが大好きだ。しかしそれでいいのだろうか。ニューヨークコレクションデザイナーとして活躍し、現在は日本で美容学校を運営するアケミ・S・ミラーさんは「ファストファッションのデザインは特徴がなく、目立ちたくない日本人にとって良くも悪くもフィットしています」と指摘する――。(第5回、全5回)

90年代後半を最後に消えた「デザイナー」

日本のファッション業界は、ユニクロやゾゾタウンなどの台頭で、時代の転換点にあると世間では言われています。しかし1995年あたりから既に時代は大きく切り替わっているのです。それに比べれば昨今の変化は微々たるものにすぎません。

1990年代後半とは、コレクションのファッションデザイナーが活躍していた最後の時代でした。ニューヨークでは、ダナ・キャランやカルバン・クライン、ラルフ・ローレンを最後に、それ以降はデザイナーといえる存在が育たなくなったのです。

デザイナーは、年2回のコレクションを制作し、さまざまなかたちで作品を発表します。卸を中心としたビジネスの他に、ブティックを運営したりするための費用として、年間5億円ほどのお金がかかります。

かつては、投資家たちがパートナーになりデザイナーに投資をし、将来の利益の還元とともに個性の強いオリジナルな洋服を製作することで、時代を一緒に作るという文化がファッション業界にはあったのですが、気が付けば市場は変わってしまいました。多くの変化がありましたが、デパートや資金力のある大量生産のメーカーが洋服の仕入れをしなくなり、さもデザイナーが制作したような洋服を自社で作るようになりました。

見た目だけ良い既製服に勝てなくなった

売値を半額以下にした分、素材やパターンは私たちデザイナーが使っていたものではありません。着心地やシルエットは全く本物に及ばないですが、見た目はそれらしくしているので、手軽に購入できるこういった商品を求める人の方が多くなってしまいました。

その影響から、高級ラインのブランドの洋服が売れなくなり、投資家たちもファッションデザイナーに対し、大きな投資をしなくなりました。デザイナーは生き抜くために、今までのコレクションのデザイナーからジーンズのデザイナーになったり、メトロポリタンオペラの衣装デザイナーになったり。私にもハリウッドの著名な監督から、「こちらに来て、映画の衣装デザイナーにならないか?」という話もありました。

私は東京時代、ニューヨーク時代ともにファッションだけでなく、メイクアップも取り入れたトータルビューティーを早くから提唱しており、その頃から美容のスクールも立ち上げていました。ですから「デザイナーなのに美容も関わるの?」とよく言われていました。しかし今は、ダナ・キャランやカルバン・クライン、アルマーニなどのデザイナーたちがそれぞれ香水や化粧品部門を作り、当たり前のように商品展開しています。やっと私のコンセプトに皆が追い付いてきてくれたということでしょうか。

アパレル企業の服作りは「エンジニア」的

さて、ここまで私が説明してきた「ファッションデザイナー」とは、あくまでもコレクションのデザイナーを指しています。アパレル企業で、マーケットに応えるかたちでデザインの作業をしている人たちは、いわゆる「デザイナー」ではなく枠組み的には「エンジニア(技術者)」ではないでしょうか。

最近はファストファッションが盛り上がりを見せていますが、NYコレクションの世界で生きてきた私から見ると、そういったものは「ファッション」と言えるのかは疑問です。

ファッションはその時代を表現するアートであり、時代の象徴です。大変な生みの苦しみを味わいながら作り出すもの。だから売れ筋だけを考えて、マーケットに迎合するような方法でしかものづくりを捉えていないそれは単なるビジネスです。人々が求めるものに合わせるのではなくて、自分が作るもので時代をリードしていくのが、本当のデザイナーの姿だと私は思います。

ゴールドからシルバー、そして白へ

ファッションデザイナーには、時代を先取りして読み取る力が求められます。

例えば、今から80年くらい前、シャネルが活躍していた頃は「ゴールド」の時代でした。女性の体を解放し、高級品を身に着け、社交界で華々しくデビューする黄金の時代でした。その後は、「シルバー」の時代に移っていきます。私が渡米した1989年。パリやミラノコレクションに挑戦するという選択肢もあったのですが、無機質で古いものも新しいものも何でも受け入れるけれど、良くないものは遠慮なく排除してしまう場所、ニューヨークを選びました。

私がニューヨークに到着した時の色は、きれいな深いブルー、シルバー、グレー、そして黒を感じました。今は世界的に「白」の時代が続いています。シルバーよりマットで華やかさは抑えられ、逆に清潔感やナチュラル感、クリーンさが強くなりました。メイクアップもライフスタイルもそれを支持しています。でももう白も終盤にきています。後5年ぐらいで、次はもっとはっきりした強い色に変わっていくと思います。

創造力、感性と同じくらい必要な能力とは

先ほどから時代を色で表現していますが、実際にその色を人々が支持し、生活の中にもその色が入っていく場合も多々あります。時代の色という概念は、抽象的で感覚的なことですから説明が難しいところではあるのですが、そこを外さずに読み取るということがデザイナーとしては非常に大切なことです。

もし、今からファッションデザイナーを目指している方は、創作能力や感性の他に自分が起業するに当たってのお金を集める力も必要であると考えてください。先ほど申しましたように、本気でNYコレクションのデザイナーの仕事をやっていくには年間5億円ほどかかりますから、一番ぜいたくでお金のかかる仕事を選んだことになります。そこで自分の才能にほれ込んでくれる、この人と一緒に世界で挑戦しようというスポンサーを見つけなければなりません。

投資家にとってはいつ、そのお金が大きくなって返ってくるかが投資条件です。ということはアーティストだから数字は分からなくてもよいという時代は終わり、デザイナーもマネジメントサイドの人たちと一緒に、ビジネスプランを作ったり考えたりする経営能力が必要になってくるのです。

大きなお金の投資、融資を受けるに当たり、“私はアーティストだから何も分かりません”では、いくら才能があってもお金は出てこないということです。

大量生産は没個性的な日本人にピッタリ

話をファストファッションに戻すと、今、普及しているような大量生産のビジネスモデルは、日本人には良くも悪くもすごくフィットしていると思います。というのも、日本人って、みんなと同じであることを好みますよね。ブームに乗せられて、似合わない服を着ている人も多い。“客観的に見ておかしいと気付かないのか?”と思うこともあります。

みんなに合わせて、同じ服ばかり着るのではなく、もっと自分らしさを持ったほうがいいと思います。スーツ姿を見てもニューヨーカーは一人として同じイメージの人はいません。日本人は色も形もまるで制服のように感じます。少しでも個性的に見られたいアメリカ人と、人より目立つことを嫌がる日本人との違いでしょう。

それはファッションに限ったことではなくて、ライフスタイルや生き方の話でもあります。私は25年間ニューヨークで仕事をし、2013年に帰国しましたが、残念ですが日本人は以前に比べてチャレンジ精神が無くなったように感じています。冒険をせず安定ばかりを望むようになりました。大きい成功を望まず、静かに平穏に生活したいという方が多いようです。

私はそんな方々を目の前にして色んなお話をします。世界に出て自分を試してみたいと思いませんか? とか、外から一度日本を見るべきだとか、どちらかというと女性の方が共感してくれますね。きっと求める幸せが違うのだと最近分かってきました。

日本文化を世界にもっと広めるには

日本人はすべてにおいて形から入る民族だと、ニューヨークに渡米してから気が付きました。昔はそこに心もあってとてもすてきなことでした。ところが25年ぶりに帰国してみると、形だけにこだわりがちになり、そこに心が伴っていないように見えました。

ニューヨークでは、荷物が多くて困っていたら、知らない人が「そこまで持っていってあげるよ」と声をかけてくれます。日本だったら「詐欺なんじゃないの」「荷物、持っていかれちゃうんじゃないの」と思うでしょう? 知らない人が回転ドアを後ろから押してくれて、“Have a good day!”と声をかけてくれます。ニューヨークではそれが普通だから、何の駆け引きも、何のプラスもマイナスもなくて、その時だけの一瞬の幸せを感じます。

通りすがりに、“Wow, you have a beautiful hair!”って大きな声で言われて、“Thank you. You too!”と、返して別れることもあります。「髪の毛きれいね」って一言言いたい人と、うれしくなって「ありがとう!」って言う人とのただそれだけの関係。それ以上でも以下でもない。ふわっとした幸せがニューヨーク中に存在しています。

ニューヨークのように、瞬間の優しさやうれしさを見ず知らずの人にも言え、一瞬の小さなうれしさや幸福感を感じられるような日本になれば、改めて形から入る日本の文化も、もっと世界に表現していくことができると思います。私は母国に帰ってきたのだから、私が経験してきた世界観を、美を通して皆さんに手渡していきたいと実践しています。

———- アケミ・S・ミラー(Akemi S. Miller) トータルビューティープロデューサー 兵庫県生まれ。京都できものを学び、1979年から東京で“曽根あけみ”として活動。89年にニューヨークに渡り、AKEMI STUDIOを設立。ニューヨークコレクションのデザイナーとして活躍した。 ———-

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