安倍氏物まね芸人「忘れたくない」 銃撃事件後の葛藤と決断

昨夏、列島を震撼(しんかん)させた凶弾が一人のお笑い芸人を岐路に立たせた。安倍晋三元首相の物まねで芽が出始めていたビスケッティ佐竹さん(40)。このネタを続けていいのか。何より今、笑いは必要なのか。心の整理がつかず安倍氏の物まねを自粛した。ふさぎ込んだ日々と昨年9月の国葬、そして妻の昭恵さんとの面会。原点に立ち返った佐竹さんは大きな決断を下した。

昨年7月8日、スマートフォンにおびただしい数の通知が届いていた。<大変なことになっているよ>。ネットニュースのヘッドラインに言葉を失った。「安倍元首相銃撃される」「散弾銃か、意識不明」。何が起きたか分からず、ただ無事を祈るだけだった。その日の物まね舞台の出演予定をキャンセルし、道具を抱えて帰宅。自宅では妻が泣き崩れていた。

夕方、安倍氏が亡くなる。悲しみと憎しみ、そして未来への不安。感情をのみ込む余裕もなかった。

<(物まねを)絶対やめないで><今だからこそ見たい>。自身のツイッターには、心配するファンから応援や励ましの声が続々と届いた。メッセージを眺めながら逡巡(しゅんじゅん)した。多くの人が期待してくれている。しかし物まねで、事件を思い出す人がいるのではないか。答えは出ず、この日のうちに物まねの自粛を決めた。

「お前に似ている政治家がいるよ」。17年余り前、山口県出身の友人の一言を機に安倍氏の存在を知った。当時は小泉純一郎政権の官房長官。「似すぎだな」。その姿を目にし、驚愕(きょうがく)したことを覚えている。

安倍氏は平成18年、戦後最年少で首相に就任。体調悪化を理由に一度退陣したが24年、再び首相に返り咲いた。これを機に佐竹さんも物まねを本格化させた。ただ苦い記憶もある。「偽の安倍晋三」として選挙番組に出演したが、自身の政治知識が乏しく、お笑い的に滑り続けた。

「安倍さんが何を考えているのか分かっていなければ芸として通用しない」。それからは国会中継を注視し、口調やしぐさを熱心に研究するように。新聞やテレビのニュースをくまなくチェックし、政治の知識を積み上げた。全ては少しでも安倍氏に近づくため。ものになるまで1年半を要した。

吉本新喜劇のメンバーたちとともに安倍晋三元首相を表敬訪問したビスケッティ佐竹さん(中央右)(吉本興業提供)
吉本新喜劇のメンバーたちとともに安倍晋三元首相を表敬訪問したビスケッティ佐竹さん(中央右)(吉本興業提供)

磨いた芸が運命を切り開く。27年、山口県出身者が集まるイベントに安倍氏が顔を出すと聞き、飛び入り参加した。緊張の初対面。舞台でネタを披露すると、安倍氏は笑いながら「わたくしは似ているとは思わなかった」。その一方、力強いメッセージを送ってくれた。「彼が物まねを続けるためにも、わたくし自身が頑張っていかなくてはいけない」

翌年の同じイベントには安倍氏の代わりに昭恵さんと2人で登壇。「主人が若返っちゃった」。特に物まねを気に入ってくれたのが昭恵さんだった。ある年のクリスマスには、安倍氏が着用していた黄色のネクタイを贈られた。

さまざまな現場で夫妻と共演した。嫌がるどころか「これからも頑張ってね」といつも温かく見守ってくれた。この物まねを一生続けていこうと思った。

銃撃事件以降、安倍氏ネタでのテレビやイベントの出演は一切なくなった。憔悴(しょうすい)する気持ちを、前年に生まれた娘の育児で紛らわす毎日だった。

そして迎えた国葬の日。「最後にお礼が言いたい」。昭恵さんからもらったネクタイを身に着け、一般献花の長い列に。献花台につくと、遺影の安倍氏が偶然にも同じネクタイをつけていた。「佐竹くん、今日も物まねしてきたの」。そんな風に言ってくれている気がして涙がこぼれた。

「やっぱり安倍さんを忘れたくない」。物まねの再開にあたり筋を通そうと思った。連絡を取ったのは昭恵さん。安倍家を訪問し、昭恵さんに物まねを続けたいと告げると、こんな答えが返ってきた。「大変だと思うけど、できる範囲でぜひ続けて」。事件以来、抑えていた感情があふれ出し、それ以上は言葉を紡ぐことができなかった。

年末から交流サイト(SNS)などで少しずつ物まねを再開させた。安倍氏が生前に訪れた場所を、安倍氏の姿で訪問する企画もその一つだ。

今年1月、東京電力福島第1原発事故で被災した福島県楢葉(ならは)町を訪れたときのこと。「安倍さんに声をかけてもらったみたいでうれしい」。町民がうれしそうに、生前の安倍氏との思い出話を語ってくれた。改めて安倍氏の存在の大きさを痛感した。

必要以上に空気を読む時代。もう安倍氏ネタでのテレビ出演は難しいことは承知している。それでも喜んでくれる人、待ってくれる人は全国にいる。安倍氏にふんする意味を今まで以上にかみしめながら、佐竹さんは街に繰り出す。(木下未希)

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