■世界的に品薄、新たな特産に
フォアグラ、トリュフと並ぶ世界三大珍味の一つ、チョウザメの完全養殖と卵「キャビア」の量産に宮崎県が国内の自治体として初めて成功した。霧島連山に抱かれた小林市にある県水産試験場小林分場が昭和58年にチョウザメの養殖研究に着手して30年。試行錯誤を繰り返した結果、11月に宮崎産キャビアの本格販売を始める。乱獲で世界的に品薄状態が続く中、新たな特産品創生に期待が高まる。(津田大資)
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「ミスター稲野、水温を下げて、チョウザメに『冬』を与えていますか?」
3年前、米カリフォルニア大学デービス校を訪れた小林分場の稲野俊直副部長は、チョウザメ研究の第一人者の指摘に、目からうろこが落ちる思いだった。
当時、小林分場の研究は暗礁に乗り上げていた。
「稚魚の人工孵化(ふか)は成功していましたが、どう育てても毎年、卵を宿すことは少なかった。ワラにもすがる思いで訪米したのです」
小林分場は、豊富な湧き水を飼育プールで利用していたが、これがマイナスに働いていたのだった。
湧き水は年間を通じて17度前後で、河川でいうと春ごろの水温だ。チョウザメは春に卵を宿し始め、夏に産卵する。卵を宿すには、一度水温を下げて、チョウザメに「冬」を体感させる必要があった。
稲野氏らはアドバイスに従った。外気で冷やし、飼育プールの水温を10度以下にした。そして自然界と同様に「冬」から「春」そして「夏」になるよう、水温を徐々に上昇させた。
平成23年の夏。冬を体感させたチョウザメの雌が一斉に卵を宿した。稲野氏は語る。
「冬を与える。分かってしまえば簡単なことですが、たどり着くまでの道のりは長く、まさに『コロンブスの卵』でした」
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宮崎県がチョウザメの養殖研究を始めたのは、東西冷戦中の昭和58年に遡(さかのぼ)る。旧ソ連と日本の親善交流で、チョウザメとアユを交換した際、小林分場所が養殖に名乗りを上げた。
当時、内陸部の漁業は危機を迎えていた。
かつて小林市を中心にニジマスやアユの養殖が盛んだったが、食生活の変化で徐々に衰退していた。昭和40~50年代に10軒程度あった養殖業者は、現在は1軒しか残っていない。
ニジマスに替わる特産品を-。内陸漁業の存亡をかけて、小林分場はチョウザメの幼魚200匹をもらい受けた。だが、養殖は何度も壁にぶつかった。
旧ソ連からもたらされたのはベステルと呼ばれる交配種だった。平成3年、水産庁養殖研究所(当時)に次いで人工孵化に成功し、順調に進むかに見えた。
だが、交配種のためか、代を重ねると奇形が生まれるようになった。
小林分場は北米原産のシロチョウザメに研究対象魚を切り替えた。飼育に成功していた岩手県釜石市の第三セクターから5年、稚魚1万匹を買い取った。
16年に全国で初めてシロチョウザメの人工孵化に成功した。そして卵を宿すための水温調整のノウハウ確立…。苦節30年、キャビア量産化にこぎ着けた。
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キャビアは世界的に品薄状態が続いている。
チョウザメはユーラシアや北米大陸の寒冷地に広く生息し、キャビアはカスピ海やアムール川などロシア産が有名だ。
ところが、1991年のソ連崩壊の混乱で管理態勢がずさんになり、カスピ海周辺で乱獲された。
環境破壊も相まって個体数は激減し、国際自然保護連合はチョウザメ27種中23種を絶滅危惧種に指定した。天然キャビアの輸出入は、ワシントン条約で規制されている。
規制によってキャビアの希少価値は上昇し、最高級品は1キロ80万円の値がつくようになった。需給のバランスが崩れたことで、密漁がますます横行するようになった。
それだけにキャビア消費国である日本で、量産技術が確立した意味は大きい。
宮崎県水産試験場小林分場は、チョウザメ養殖とキャビア量産の技術指導を県内事業者を対象に始めた。すでに19業者が数万匹のチョウザメを育てている。
これら事業者はキャビアの製造販売を手がける「宮崎キャビア事業協同組合」を設立し、11月から販売を本格化する。
国内から出荷することから、長期保存のための「低温殺菌」や「高塩分処理」が不要となり、キャビア本来の味が楽しめるという。卵の直径3・5ミリ以上の高級品は20グラム入り1万2千円と高額だが、組合には問い合わせが殺到している。
今後はメスを多く生ませたり、より大量の卵をつくらせる品種改良が必要となる。小林分場の研究はこれからも続く。