希望の国の不幸な若者たち

■希望の国の不幸な若者たち
斜めにしか読んでいないんですけど、古市憲寿氏の『絶望の国の幸福な若者たち』*1 という本は、すごく端折って言うと、日本の若者たちは今よりも将来のほうが良くなるという感覚を持てないので、とりあえず過不足のない今の状態を幸福だと感じる構造がある、という話だったように覚えています。
*1:『絶望の国の幸福な若者たち』 著古市憲寿 講談社
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2170655
というとこれは、今私が滞在しているアフリカの貧困国のようなところでは話が反対になりますよね。“アフリカ”で一括りにするのは雑過ぎるのは分かってますが、まあ一般に後発発展途上国のことと考えていただくと、そういう国々では今がヒドイ、ところによってはこれより悪くなりようがないという有様なので、今現在に不幸を感じ、将来はきっと良くなると希望を持つという理屈になる。
“絶望の国の幸福な若者たち”の反対、“希望の国の不幸な若者たち”です。「貧しいけれども子どもたちの瞳は輝いていました」っていうやつです。そして確かに、アフリカの途上国の若者たちの間にはこの種の希望が存在していますよ。
これ、要は「明日は今日より豊かになる」っていうだれにでも当てはまりそうな一般的な希望は、言外に今は貧しいという前提があるということです。たぶん、物知り顔で「日本は将来に希望が持てない社会だ」なんて嘆いて見せている人たちの言う希望もこの“一般的な希望“のことで、だとしたらむしろ、そういう“一般的な希望”を持つ人が少ないということは、豊かな社会だということの証左になるんじゃないでしょうかね。
所得倍増だのと列島改造だのと言って、みんなが希望に満ちているように見えた時代の希望も「明日は今日より豊かになる」っていう“一般的な希望”で、そこに暮らした個々人は日々まい進していれば、確かに豊かになっていったんでしょう。学校を出て、会社に勤めてバリバリ仕事をして、適当なところで結婚して郊外に家を買い、そこで子育てをして温かい家庭を築く、そういう幸せの定型があって、現にその定型の幸せが実現されていった、みんなそれなりに“一般的な希望”に実現に近づいていることが実感できた時代だったんだと思います。そして、日本はその“一般的な希望”の時代を卒業した。で、それが本来の意味で先進国っていうことじゃないのかなと。ひたすらに豊かになることを追い求めるだけなら途上国です *2 。そしてその豊かさに到達した先の“希望”はもはや“一般的な希望”ではあり得ない。個人個人が自らのミッションを背負って生きる、多様性の時代になっているんでしょう。“一般的な希望”ではなく、それぞれの“多様な希望”が活きてくる時代だと思いたいよね。
“一般的な希望“==>今は貧しいけど、明日は今日より豊かに。
“多様な希望”==>豊かな社会は実現したので、それぞれが新たな創造を。
“多様な希望”の中身は学校も政府も、親でさえも示してくれない。まして「子どもたちに希望を」なんて空疎な言葉を吐いてる人に期待するのは無理でしょうねぇ。
*    *    *
*2:アラブの産油国とか、GDPだけ見ると先進国なんだけど、なんか先進国な感じがしない。他方でそれより経済的には貧しい南欧諸国は一応先進国扱い。“豊かさを追い求めるだけなら途上国、その先を見据えるのが先進国”と考えると、なんとなくそれも合点がいくような気がする。
執筆: この記事はkenさんのブログ『Tokyo Life』からご寄稿いただきました。

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