(池田 信夫:経済学者、アゴラ研究所代表取締役所長)
日本政府の韓国に対する半導体材料輸出の優遇措置解除をめぐって、韓国政府との対立が深まっている。韓国はWTO(世界貿易機関)の理事会でこの問題を取り上げたが、賛成は得られなかった。
この背景には、韓国側が「徴用工」と呼ぶ戦時中の朝鮮人労働者に対する賠償をめぐる対立がある。韓国政府はWTOでも「徴用工問題への報復だ」と日本政府を批判した。こういう文在寅政権の態度に「反日」だと反発する日本人が多いが、問題はそれほど単純ではない。
日韓請求権協定に違反する「徴用工」判決
元朝鮮人労働者の問題は、今に始まった話ではない。1965年に日韓基本条約が結ばれる前から労働者の賠償問題はあり、日本政府は賠償を拒否していた。日本の朝鮮支配は国際法的に合法であり、賠償は必要ないとの立場だったからだ。
これに対して当時の朴正熙大統領は、世界の最貧国だった韓国の経済を建て直すため「経済協力」という曖昧な理由で日韓請求権協定を結び、日本から5億ドルの資金を受け取った。このとき徴用工の賠償は韓国政府が行うことになった。
この問題を蒸し返したのが、一連の「徴用工」訴訟である。2018年に韓国大法院(最高裁)は、新日鉄住金に賠償を命じる判決を出したが、この訴訟の原告は政府に徴用された労働者ではなく、募集に応じて日本に来た朝鮮人労働者とその遺族だった。
たとえ徴用された労働者でも、その賠償は韓国政府が行い、日本政府はその資金を援助すると決めたのが日韓請求権協定である。このため日本政府は一貫して賠償を拒否してきたが、韓国の裁判所は韓国内にある新日鉄住金などの資産を差し押さえ、その売却を認めた。
大法院判決は「徴用工」への損害賠償を「日本政府の朝鮮半島に対する不法な植民地支配および侵略戦争の遂行と直結した日本企業の反人道的な不法行為」に対する慰謝料として認め、これは日韓請求権協定の対象外だという。
条約も国際法も超えた「不法行為」を指弾する論理には飛躍が大きすぎて、韓国人以外には理解できないだろうが、文在寅政権にとってはそれでいいのだ。これは日韓問題ではなく、韓国の国内問題だからである。
前の政権の約束を破る韓国政府
最初に大法院が新日鉄住金に賠償責任があると判断して下級審の判決を差し戻したのは2012年だったが、朴槿恵政権はこの訴訟を5年以上「凍結」した。文在寅政権がそれを「故意に判決を送らせている」と批判し、大法院の当局者を逮捕したため、大法院は急いで同じ趣旨の判決を出した。
しかし文在寅大統領はコメントを避けた。それは当然である。2005年に盧武鉉政権が日本に対する請求権について「慰安婦問題は未解決だが、徴用工問題は日韓請求権協定で解決ずみだ」と確認したときの韓国側の責任者が、当時の文在寅秘書室長だったからだ。彼は徴用工問題を蒸し返すのはルール違反だと知っているのだ。
請求権問題をめぐって、韓国政府の態度は二転三転した。1993年に河野談話で日韓両国が慰安婦問題を政治決着したのは保守派の金泳三大統領だったが、左派の盧武鉉大統領はそれをくつがえした。このとき徴用工については「賠償責任は韓国政府にある」という合意文書があったが、慰安婦にはそういう合意がないというのが韓国の論拠だった。
これにもとづいて安倍政権は2015年に朴槿恵政権と慰安婦合意を結び、財団に10億円を拠出したが、「徴用工」判決が出ると、文在寅大統領は慰安婦合意を破棄し、財団も解散してしまった。
「徴用工」問題についての文在寅氏の行動は矛盾しているが、前の政権の約束は守らないという点では一貫している。このような韓国政府の行動は、近代国家としては理解に苦しむが、儒教圏ではそれほど特異ではない。
韓国の政権交代はつねに「革命」
中国では「国」という言葉は明や清などの王朝を示し、それを超えるstateに相当する言葉がなかった。国は人口の1%以下の王朝(皇帝と官僚機構)を示す言葉で、一般国民は含まれていなかった。「易姓革命」で王朝が代わると前の王族は皆殺しになり、宮廷は破壊された。
異なる政権が対外的な連続性をもって条約を守る主権国家は、1648年のウェストファリア条約以降の西洋近代に特有の概念である。そのstateが明治時代に日本で「国家」と訳されて清に輸出されたが、儒教圏に主権国家は根づかない。中国には今も共産党政権以外の国家はなく、人民解放軍は共産党の「私兵」である。
儒教の圧倒的な影響を受けた韓国にも、政権を超える国家の概念がない。大統領が交代するたびに1万人近い政府職員が入れ替わり、新しい王朝ができてしまう。韓国の大統領が悲惨な末路をたどるのも、政権交代が「革命」になるからだ。
軍政の時代の大統領は暗殺や亡命で政権を追われ、刑事訴追された。民政になってからも、盧武鉉は自殺し、李明博と朴槿恵は訴追されて獄中にいる。
こういう国では、大統領は文字通り命がけの仕事である。前の政権の腐敗を一掃し、その決定をくつがえして自分の清潔さを示さないと生き残れない。反日も目的ではなく、親日と見られることが韓国では政治生命を失う原因になるからだ。
本質的な対立は日本と韓国ではなく、韓国内の保守派と左派の間にある。これを韓国では、南南葛藤と呼ぶ。その背景には、朝鮮半島の南北対立の歴史がある。北朝鮮を敵国と考えるのか同胞と考えるのかについて、今も韓国内には深い亀裂がある。
日本との関係を重視する保守派に対して、北朝鮮との関係を重視して日本との関係を軽視するのが左派である。文在寅大統領の行動には、国内の保守派を一掃するという一貫性がある。自分の身を守るには、保守派の「反革命」を封じる必要があるからだ。
そのとき利用するのが、反日というカードである。おかげで日韓関係は崩れてしまったが、この問題の本質は韓国の南南葛藤なので、外交交渉で解決するのはむずかしい。安倍政権が韓国の非常識な対応に冷静に対応しているのは賢明である。