新型肺炎の感染拡大によって、日本メーカーの中国製製品の供給が混乱している。このことからわかるのは、日本メーカーは相変わらず製造を中国の工場に依存しており、「チャイナプラスワン」への移行は一部に限られていたということだ。
供給が滞っている中国製製品といえばマスクだ。中国では新型肺炎の爆発的流行で春節を前に深刻なマスク不足に陥り、1月第4週にはその騒動が日本に飛び火した。
中国でマスクを生産し、日本で販売していた中小企業のA社も大騒ぎだった。A社営業部長の山本雅也さん(仮名)はこう語る。
「1月22日に中国の工場に電話をかけたら、『当局がマスクの出荷先を厳重に管理している。全量を中国内に振り向けさせなければいけないので輸出はできない』というのです。物流も混乱しています。春節の休業延長で港には貨物が積み上がったまま動きません。たとえ稼働を再開しても、この状況ではいつ日本にマスクが入ってくるかわかりません」
中国では1月25日に中央政府の号令がかかり、30を超えるメーカーが春節休暇を返上してマスクの生産に取り掛かった。しかし、日本には届かない。都内の一部のドラッグストアでは、買い占めピークの1月29日以降、マスクが店頭から消えた。2月12日時点で「全国的に品薄状態が続いている」(日本衛生材料工業連合会)という。
中国の日系工場で総経理職を務めたことがある松田健司さん(仮名)は、新型コロナウイルス感染拡大の影響について、2003年に経験したSARS禍と重ねてこう話す。
「SARSのときは、工場に従業員が残っていたからまだましでした。けれども今回の新型肺炎では、春節に武漢から500万人が出て行ったといわれています。周辺に立地するメーカーは、場合によってはゼロから従業員を集め直さなければならないでしょう」
完成品メーカーはもちろん、中国系の部品工場も平時から人手不足に頭を悩まされている。「新型肺炎の収束が長引くと、下手したらサプライチェーンが完全に崩壊してしまう可能性すらあります」(同)。
ベトナムでの製造に再挑戦
中国で稼働する日系の製造業がこうした大混乱を経験するのは、2010年代から今年にかけ3度目である。
最初は2012年9月の反日デモだ。このとき中国政府の商務部、公安部を筆頭に関連部門が日系企業に制裁を加えた。工場では貨物の通関も滞り、正常な稼働が困難になった。一部の工場では中国人従業員が出社を拒否したり、取引先がわざと納期を遅らせたりするなど、想定外の事態が発生した。2度目は昨年(2019年)の米中貿易戦争だ。中国から米国への輸出が困難になり、日系工場の多くが打撃を受けた。そして今回の新型肺炎である。
すでに2010年代の中国では賃金が高騰し、労働集約型の外資工場にとって中国での生産は現実的ではなくなっていた。そのなかで上記のような混乱が起きるたびに、日系企業の間で「中国脱出」の機運が高まった。
一部の企業は中国から東南アジアに南下を図った。特にベトナムは日本企業が投資を増やし生産ラインを拡大させるなど活発な動きがあった。1970年代後半に来日し、現在、日本企業にベトナム進出の方法を指南しているCross Border Strategies代表の旭南成華(あさひな・せいか)さんは、「ベトナムの強みは小ロット多品種に対応できること。品質も中国に引けを取りません」と語る。
しかし、日系工場のベトナム移転は一大トレンドにはならなかった。試験的にトライはしてみるものの、「やっぱり中国だ」と戻ってしまう企業が少なくなかった。
大きな理由の1つは大量生産ができないことだった。「小ロットの生産だと単価が高くなり、なかなかコストメリットを打ち出せないのです」(旭南さん)。
品質面でも課題があった。冒頭で触れたマスク生産を手掛けるA社は、2014年にベトナムに進出した。当時、中国ではまだまだ不良品が多かった。ベトナムで品質管理を徹底すれば、中国以上の品質を実現できるのではと、思い切ってベトナムに生産拠点を設けた。しかし、衛生関連製品となると一定のハードルがあり、ベトナムの“ものづくり力”は思うようには上がらなかった。前出の山本さんは「コストもさることながら“人”の問題が克服し切れなかった」と振り返る。「品質管理への意識改革が困難でしたし、日本人がベトナム人を直接管理することの難しさもありました。一方、中国の工場はこの数年で品質をかなり向上させました。それならば中国の工場にオーダーを出したほうがいいじゃないかという結論に達したのです」。こうしてA社はベトナム工場の縮小に着手する。
そうした矢先に新型肺炎が中国を襲った。中国生産のマスクはすべて中国内での供給に向けられ、日本への供給が滞る中、A社はベトナム拠点の重要性を再考せざるを得なくなった。A社・ベトナム工場の日本人工場長はこう話す。「この騒動で、中国一極依存のリスクを改めて痛感しました。縮小したベトナム拠点ですが、日本市場向けの製品づくりに再度挑戦するべきだと考えています」。
中国から撤退のタイミング到来か
日系の労働集約型製造業の間で「中国から撤退したい」という思いはくすぶり続けている。しかし、日系企業の中国進出に詳しいあるコンサルタントは、「中国での生産をやめたくてもやめられない企業が少なくない」と言う。
そこには中国ならではの理由がある。2000年代に中国で日系工場が続々と立ち上がった。地元政府との間で複雑な手続きを要すると懸念されたが、地元政府は日系企業を歓迎し、さまざまな便宜を図ってくれた。たとえば工場の設立資金を半額にしてくれたり、雇用人数を少なく書き換えて社会保険料を少なくしてくれることさえもあった。
だが、逆に幕を引くとなると、当局の態度は一変する。撤退を断念させようと、あの手この手で説得し、過去の帳簿の“不備”も追及してくる。便宜を図ってくれたお役人がすでに離職していたりすると、日系工場は「辻褄の合わない数字」の説明に窮することになる。
「中国からの撤退は骨が折れます。けれども、今こそ撤退のタイミングではないでしょうか」。こう語るのは1952年創業の婦人服OEM企業、小島衣料(岐阜県岐阜市)のオーナー、小島正憲さんだ。
小島衣料は1991年に中国に拠点を設けた。ところが、2000年代に入ると働き手を集められなくなる。同社は素早い決断で中国の複数の拠点を閉めると同時に、アジアでの多極化を進めてきた。現在は中国、香港、バングラデシュ、ミャンマー、フィリピンで生産体制を築いている。「中国で育てた人材を東南アジアや南アジアに派遣して指導に当たらせることで多極化に成功した」のだという。
小島さんは、中国で工場を構える日系企業に、中国事業の撤退を含めたサプライチェーンの全面的見直しを提案する。小島さんによると、中国で事業を撤退する際に、一気に会社を清算すると労働争議が起きたり、地域との摩擦を生むこともあり得策ではない。どのみち工場が稼働できない状況であるならば、ここでできる限りのダウンサイジングをしてしまうのもひとつの手だという。
2020年は大混乱の幕開けとなった。だが、中国で事業展開する日系企業にとって決断を下す1つの大きな機会となるのではないだろうか。