日本で広がる「小さな幸せブーム」に感じる違和感

日本でにわかに「小さな幸せ」ブームが起きている。

近年、従業員の健康や幸福の実現を図る「ウェルビーイング経営」が脚光を浴び、「世界幸福度ランキング」における日本の順位に対する関心が高まるなど、個人レベルから社会政策レベルまで「幸福」を重視する風潮へ様変わりしている。人気のビジネス書や実用書の傾向も、お金やコミュニケーションをテーマにしつつも、大きな成功よりも小さな幸せを目指すものが目立ってきている。

「幸福至上主義」の罠

もちろん、これまで放置されていた因習や悪習が見直されるきっかけになるなど、歓迎すべき点は多々ある。特に心身に過度の負担を強いる働き方が是正される意義は大きい。

だが、その一方で、単に〝ある状態〟を表しているにすぎず、かつ幅広い意味を持つ「幸福」という概念は、独り歩きしていく危険性をはらんでいる。「幸福」の獲得を人生における最重要項目に位置付ける「幸福至上主義」の罠である。

わかりやすい例が、幸せになるための自己変革だ。筆者は、最近の自己啓発のトレンドを「『社会的な成功』から『個人的な幸福』へ」というフレーズで表現している(『SPECTATOR vol.51 自己啓発のひみつ』〈エディトリアル・デパートメント〉所収、インタビュー1:真鍋厚「自己啓発が流行りつづける背景」)。

無理に努力を重ねて自己実現の達成に邁進するよりも、今いる場所で幸福度を向上させる工夫をしたほうがいいという「脱力系の自己啓発」が台頭してきたからだ。

幸せになるためには、習慣を変えるだけでいい。「人に感謝する」「運動する」「前向きに考える(ポジティブ思考)」「十分な睡眠を取る」などの取り組みを日々続ければ、幸福度は上がっていく。そうアドバイスしている本やウェブ記事を目にした人は多いだろう。つまり、ここで述べられているのは、幸福を得るための知恵であり、それらの知恵を実践すれば、誰でも幸せになることができるというロジックである。

一見、無害そうな提案に思えるが、このロジックからこぼれ落ちているものに注意してほしい。人々によって異なる「環境」や「リソース」である。

「幸せの自己責任化」

仮に幸福度が究極的にはコントロール可能なもので、心がけ次第でどうにかなるのであれば、幸福度の低さは結局のところ本人のせいになる。技術的に難しくない自己改善に勤しまない「怠惰」な人々だから不幸なのだ、と。これは本人の幸福と社会の間に何ら因果関係がないという考えを強化する。

心理学者のエドガー・カバナスと社会学者のエヴァ・イルーズは、人生で最も大切なのは「幸福」の追求とするイデオロギーが浸透しつつある現状を解き明かした『ハッピークラシー 「幸せ」願望に支配される日常』高里ひろ訳、みすず書房)で、「科学的妥当性」「社会的影響」「心理的影響」「道徳的影響」の4つの観点から重大な懸念があると主張した。

そこでも問題にされたのは、「幸せの科学」が自己責任化を助長する側面であった。これは「社会的影響」と「道徳的影響」にまたがるかなり厄介なものである。以下、該当部分を引用する。

ここで注目すべきは、幸せへの科学的アプローチとその周辺に拡大した幸せ産業が、裕福か貧困か、成功するか失敗するか、健康か病気かは自己責任だという仮説の正当化に大きく貢献しているという事実だ。さらには、構造的な問題はなく、あるのは精神的な力不足だとする考えにも正統性を与えている。

幸せの科学は、苦しむか幸せになるかは個人的な選択だと主張する。逆境を個人的成長の機会として利用しない人間は、その個人の事情に関係なく、不運を望んでいるのではないか、自業自得ではないかと思われる。結局、われわれはたいした選択肢は与えられない。幸せの科学はわれわれに幸せになることを強いるだけでなく、もっと幸せで成功した人生を送らないのをわれわれの責任にする。

まさに、前述した「環境」や「リソース」は本質的な因子ではなく、「心がけ次第」で幸せになれるというメッセージが、「幸せの自己責任化」に加担してしまう事態を指摘している。「各個人が、みずからの人生の選択と目的や幸せの意識について完全に責任をもたされると、落ち込むことも幸せになれないことも、それは個人の不満の原因だとみなされたり、意志の欠如や精神の機能不全のしるし、または失敗した人生の証として経験されたりするようになる」(同上)のだ。

極端な話、「幸福」がいわゆる「ハッピーホルモン」「幸せホルモン」(主な神経伝達物質としてセロトニン、オキシトシン、ドーパミンが取り上げられることが多い)の働きに還元されるのであれば、運動や瞑想などによって分泌させれば事足りるということになると同時に、向精神作用のある薬の投与で代替することも正当化する。そうなると、もはや脳内の物質のバランスの問題でしかないという形に矮小化されてしまう。

事実、幸せのレシピ探しに余念がない「幸福感ジャンキー」とでも評すべき人々は確実にその数を増している。

競争の舞台は、一昔前の出世や高報酬といった金銭的なものから、ストレスフリーや精神的な充足といった非金銭的なものへと移行しつつあり、操作の対象が自己の心身にのみ焦点化されがちになっている。そこで生じるのは、恐るべきことに経済状況の悪化や国家政策の失敗、社会的な不平等といった外部要因の過小評価である。

幸福と人間関係は切り離せない

「幸福至上主義」に傾倒した人々は、むしろこのような困難にこそ幸福になるための自己変革が有効との確信を深め、より幸福度を向上させる自己改善に励むというサイクルに熱中することになる。奇妙なことではあるが、これは、リスキリングに象徴される現在の労働者に求められている自律性や柔軟性、レジリエンス(適応力)といった新時代の行動規範と一致する。そのため、政府や企業にとっては体制補完的なものとして機能してしまう。

加えて、もう一つ重要なことは、さまざまな研究から幸福と人間関係が切っても切り離せないことが明らかになってきたことだ。

ハーバード成人発達研究で知られる心理学者のロバート・ウォールディンガーとマーク・シュルツは、同研究以外の多くの成果を踏まえたうえで、「よい人間関係を育むほど、人生の浮き沈みを切り抜け、幸せになれる確率も高まる」「他者との交流の頻度と質こそ、幸福の二大予測因子である」と結論付けている(『グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない』児島修訳、辰巳出版)。

ここでも強く打ち出されるのは、コントロールの可能性である。人間関係を意識的にマネジメントしていくことが推奨されている。「強い信頼の絆を築けたら、それで一安心というわけではない。なぜなら、どんなにすばらしい関係も必ず衰えるからだ。樹木が水を必要とするように、親密な関係は生き物であり、人生の季節がめぐるなかで放っておいても育つものではない。注意を向け、栄養を与える必要がある」(同上)。

とりわけ「ソーシャル・フィットネス(人間関係の健全度)」という考え方は、見事にその特徴を言語化している。人間関係も筋肉と同様、何もしなければ弱くなっていく。だから、エクササイズが必要だという趣旨である。

言うまでもなく、ウォールディンガーらの知見は、昨今の孤独・孤立をめぐる社会課題の有効な処方となりうるだろう。しかし、その半面、先述した心の技術の問題としてのみ捉えることを助長する恐れがある。

デコレーションされた「幸福」は適正か?

実際、関係性を資産ポートフォリオのような投資対象として再把握し、目的や計画などに沿って運用することを勧める言説が少なくない。「人間関係への投資」――損得勘定に基づき有用な付き合いにお金と時間をかける――を積極的に行い、幸福度の向上というリターンを得るというわけである。当然ながら、人間関係は複雑で、リスクがあり、浮き沈みとともにある。いいとこ取りはできない。

同書ではそのようなリアリズムに根差した包括的な「幸福」を語っていることに留意する必要がある。だが、自己啓発の文脈で流布している「幸福」は、もっとお手軽で、インスタントなものだ。それは、いわば「幸福感」の収集を人生の目的にしかねないものであり、それゆえ、行動の修正と境遇の軽視が相乗効果を発揮することになる。しかも、そこには「幸福至上主義」に対する懐疑はほとんど存在しない。

「幸福至上主義」は、過酷な状況にも順応できるマインドセットや、豊かな関係性に乏しい人々にとって、極めて不利な価値基準を醸成する傾向があるだけでなく、失政や社会課題がもたらす害悪を黙認するスルースキルとなりうる。わたしたちは、悲観的な未来を払拭しようと、デコレーションされた「幸福」に飛び付きがちだが、それは本当に適正なものなのか、結果的に誰の利益になるのか、自身に問いかけてみる必要がありそうだ。 

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