日本はこれから急激な人口減に直面する。神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんは「人口減を“病”と考えることには懐疑的だ。そもそも日本の人口は何人が適正なのか、私が知る限り、その数字を示してくれた人はいないし、ある数字が国民的合意を得たこともない」という――。
※本稿は、内田樹『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス新書)の一部を再編集したものです。
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少し前まで「人口問題」とは「人口爆発」だった
ある媒体から「人口減少社会の病弊」という標題で寄稿依頼された。論じてほしいトピックとして「子どもを産み育てる社会的環境がなぜ整備されないのか」「このままではどのような将来が想定されるのか」「解決策はあるのか」が示された。
そういう寄稿依頼を受けておいて申し訳ないが、「人口減」を“病”と考えること自体に私は反対である。「反対」というのはちょっと言い過ぎかもしれないので、「懐疑的」くらいにしておく。
若い方はご存じないと思うが、少し前まで「人口問題」というのは、「人口爆発」のことであった。1972年に国際的な研究・提言機関ローマクラブが『成長の限界』という報告書を発表したことがある。このまま人口増加が続けば、100年以内に人類が及ぼす環境負荷によって、地球はそのキャリング・キャパシティの限界に達すると警鐘を鳴らしたのである。
人口を減らすことが人類の喫緊の課題であるということを私はその時に知った。たしかにその頃はどこに行っても人が多過ぎた。高速道路の渋滞に出くわすたびに、「もっと日本の人口が減ればいいのに」と心から思った。
急に「人口が減りすぎてたいへん」と言われるようになった
その後、大学教員になってしばらくしたところで教員研修会が開かれた。
そこで「18歳人口がこれから急減するので、本学もそれに備えなければならない」と告げられた。ちょっと待ってほしい。「人口が多過ぎてたいへん」という話をずっと聞かされていたのが、いきなり「人口が減り過ぎてたいへん」と言われてもそんなに急に頭は切り替えられない。
それに納得のゆかない話である。ある年の日本の18歳人口がどれほどであるかは何年も前にわかっていたはずだ。人口動態というのは統計の数字のうちで最も信頼性の高いものの一つである。だったら、「18歳人口がこれから減るので、それに備えなければならない」という話をなぜもっと早くから議論しはじめなかったのか。
「18歳人口が減少したら困る体制」をコツコツ作り上げていた
ところが調べてみると、どこの大学もそれ以前は「臨時定員増」で、学生定員を増やし、教職員数を増やし、財政規模を大きくしていたのである。
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たしかにその時点での18歳人口は増えていたのであるから、それに適切に対処したのかもしれない。けれども、そうしたせいで「18歳人口が減少し始めたら、たいへん困ったことになる体制」をコツコツと作り上げていたのだ。
いったい、当時の大学経営者たちは何を考えていたのであろうか。たぶん「18歳の人口が減って困り始めるのは私が退職した後だし、とりあえず今は『稼げるうちに稼いでおく』ということでいいんじゃない」というくらいの考えだったのだろう。私だって、その時代に大学にいたら同じように考えたかもしれない。「洪水よ、我があとに来たれ」である。
「人口問題=人口減」なのは一部の先進国だけ
その時に私が学んだのは「人々は人口問題についてあまりまじめに考えないらしい」ということだった。なにしろ「人口問題」の定義自体が「人口増」から「人口減」に変更されたが、それについて誰からも何の説明もなかったからである。
それ以後、私は人口問題について、「周知のとおり」という口ぶりで話を始める人のことは信用しない。だから、「人口減」をいきなり「病弊」として論じるということにも抵抗を覚えてしまう。
そもそも今も人類規模では、人口問題は人口減ではなく人口増のことだ。
人類の人口は現在80億。これからもアフリカを中心に増え続け、21世紀末の地球上の人口は100億を超すと予測されている。この予測が正しければ、今から80年、グローバルサウスは引き続き人口爆発による環境汚染や飢餓や医療危機の問題に直面し続けることになる。
つまり、人口問題が専一的に「人口減」を意味するのは、今のところは一部の先進国だけなのだ。
私たちがこの事実から知ることができるのは、人口はつねに多過ぎるか少な過ぎるかどちらかであって、「これが適正」ということがないということである。人口については適正な数値が存在しない。それが人口問題を語る上での前提であろう。
日本の人口として、いったい何人が適正なのか、私が知る限り、その数字を示してくれた人はいないし、ある数字が国民的合意を得たこともない。
果たして、日本列島の「適正な人口数」を知らないままに、人口について「多過ぎる」とか「少な過ぎる」とか論じることは可能なのだろうか。
マルサスの人口論における2つの前提
人口論の基本文献として私たちが利用できるのは、イギリスの経済学者トマス・ロバート・マルサスの『人口論』である。
マルサスの主張はわかりやすい。「適正な人口数とは、食糧の備給が追いつく人口数である」というものだ。食糧生産が人口増に追いつく限り、人口はどれだけ増えても構わないというある意味では過激な論である。
マルサスの人口論は「人間は食べないと生きてゆけない」と「人間には性欲がある」という二つの前提の上に立っている。
「性欲に駆られたせいで人口は等比級数的に増加するが、食糧は等差級数的にしか増加しない。だから、ある時点で人口増に食糧生産が追いつかなくなり、飢餓が人口増を抑制する」というのがマルサスの考えである。
これは自然観察に基づいている。ある環境内に棲息できる動植物の個体数は決まっている。環境の扶養能力を超える数が生まれた場合には、空間と養分の不足によって淘汰され、個体数は調整される。その通りである。
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人間の場合は餓死して淘汰される前に人口抑制がかかる
ただし、人間の場合はもう少しリファインされていて、餓死して淘汰される前で人口抑制がかかる。
困窮の時期においては、「結婚することへのためらい、家族を養うことの難しさがかなり高まるので、人口の増加はストップする」「自分の社会的地位が下がるのではないか」、子どもたちが成長しても「自立もできなくなり、他人の施しにすがらざるを得ないまで落ちぶれるのではないか」といった心配事があると、文明国の理性的な若者たちは「自然の衝動に屈服するまいと考え」て結婚しなくなる。マルサスはそう予測した。
これは現代の日本の人口減の実相をみごとに道破している。それに、男性の性欲を生殖に結びつけずに処理する装置(不道徳な習慣)が文明国には完備されていることも人口抑制に効果的であるともマルサスは指摘していた。炯眼の人である。
マルサスの人口論は今の人口問題についても大筋で妥当すると思う(人口は等比級数的に増えるという予測は間違っていたし、人間の環境破壊がここまでひどいとは考えていなかったが)。
200年かかって明治40年頃の人口に戻る
人類全体の人口は21世紀末に100億超でピークアウトして、それから減少する。もっと早く減り始めるという予測もある。その後どこまで減少するかはわからない。
19世紀末の世界人口が14億だから、そのあたりで環境の扶養力とバランスがとれて人類は定常状態に入るのかもしれない。先のことはわからない。
しかし、さしあたり先進国は(アメリカを除いて)どこも急激な人口減に直面する。その趨勢のトップランナーは日本である。
内田樹『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス新書)
日本の人口は最近の統計では2070年に8700万人にまで減ることが予想されている。現在が1億2600万人であるから、今から年83万人ずつ減る計算である。83万人というと山梨県や佐賀県の人口である。それが毎年ひとつずつ消える。
2100年の日本人口について内閣府の予想は、高位推計で6400万人。これはかなり楽観的な数値である。中位推計が4900万人と予測されている。
いずれにせよ、21世紀末に日本の人口は今の半分ほどになることは間違いない。日露戦争の頃が「生霊五千万」と言われたから、二百年かかって明治40年頃の人口に戻る勘定である。