日本人だけが知らない世界の「終戦記念日」
われわれ日本人の一般常識では、先の戦争の終戦記念日は8月15日と決まっている。特に今年は戦後70周年ということで、安倍総理の談話や中国が対日戦勝利の軍事パレードを予定しており、ことさら「終戦の日」が強調される年となっている。
しかし、ロシア(旧ソ連)でも対日戦勝利は9月、アメリカでも9月となっている。中国が軍事パレードを予定しているのは9月3日。中国はこの日を「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」としている。これを決めたのが2014年2月に開催された全国人民代表者会議でのことで、まさに70周年を目前にして正式に決定されたものである。このように日本と敵対国であった周辺国をざっと見渡しても、終戦の日は実際には日本人の常識とは違っているのだ。
では、日本人が終戦の日と信じる8月15日とは何か。そもそもこの日は「終戦の日」なのか、「敗戦の日」なのか。あくまでも1945年8月15日は天皇が戦争後の日本の在り方を定めたポツダム宣言の受諾を日本国民と大日本帝国軍人に「玉音放送」という形で直接語り掛けた日であり、武器を置き、敵対行為をやめるように命じたもので、戦闘状態をいったん休止する「休戦宣言」をした日だといえる。
実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた。それを知らなかったのはごく一部を除く日本人だけだったといえよう。
事実、アメリカでは8月14日に日本が降伏することが報道されていた。その日にトルーマン大統領はポツダム宣言の内容を国民に説明し、日本がそれを受け入れたことを告げ、VJデー(対日戦勝記念日)は9月2日の降伏文書調印を見届けた上で布告するとしていたのである。
日本の降伏調印式は1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、その状況はラジオの実況中継で全世界に流された。トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説。その中で9月2日を正式にVJデーとし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。したがってアメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになる。
当然のことながら、日本においても天皇の命により、全権大使が署名した降伏文書により、国家として公式な正式な終戦は9月2日の降伏調印の日となる。これを受けて、占領が行われ、日本国憲法が制定された後、サンフランシスコ条約で国際社会に復帰する……という流れになる。
ソ連時代と日付が異なるロシアの「終戦記念日」
われわれ日本人は、1952年9月2日、サンフランシスコで行われた講和条約の締結で、日本は正式に独立国家になったと学校で習った。そして世界中の国々との対等な関係が成立したことになっている。ではこの日を期に、各国との戦闘状態が正式に終了したのかというと、事はそんなに単純ではないのだ。
サンフランシスコ講和条約には、主要な敵対国の中で中国とソ連が参加していなかった。そのため日本はそれらの国々とは別個に条約を交わさなければならなかったのだ。
中国(中華人民共和国)とは1972年に国交を回復し、日中共同宣言を通じて正式に戦争状態を終わらせた。しかし、北方領土問題を抱えたソ連とは1956年に日ソ共同宣言を交わし、両国が国会で批准した条約扱いになっているが、いまだに平和条約は結ばれていない。
このような一連の事実からすれば、政治的事情が絡まって交戦国にはそれぞれに終戦記念日があり、この日が全世界共通の決定的な終戦の日とはなかなか言えないのが実情だ。
例えばソ連。この国ではソ連時代とその後のロシアになってからと、終戦記念日が変わっている。ソ連時代では降伏調印翌日の9月3日を対日戦勝記念日としていた。
ソ連は1945年8月9日に対日戦を開始。降伏調印が行われている9月2日に、北方領土の歯舞島攻略作戦を発動している。そして5日に千島列島全島の占領を完了させた。そのため、日本への侵攻作戦実施中の9月2日を戦勝記念日とは言えなかったのである。
かといって、ソ連を含む連合国が調印式に参加している手前、無視することもできず、とりあえず、翌9月3日に戦勝記念式典を開いて体裁を整えたのである。
その後、またまた政治的な理由で終戦記念日が変わる。ソ連では、戦勝記念式典の開かれた9月3日を正式な対日戦勝記念日と定めていたが、ソ連崩壊後の2010年7月、政権を受け継いだロシア連邦共和国議会が、9月2日を「第二次世界大戦が終結した日」と制定する法案を可決したのだ。
これによって、ロシアが正式にソ連の後継政府であり、連合国として戦った国とアピールしたのである。それと同時に、この終戦記念日の制定は日ソ中立条約違反、シベリア抑留、日本の正式降伏調印以降の不法な戦闘行為、および北方領土の不法占拠など、対日戦で行ったあらゆる行為をソ連が行った事であり、ロシアとは関係がないとして帳消しとし、あらためてロシアが北方領の実効支配者として自らを正当化できるという、したたかな政治的計算の上に成り立った終戦記念日制定だといえよう。
2つの「中国」と対戦し降伏した日本軍
中華民国は中国大陸での戦闘の主役であり、連合国の一員としてポツダム宣言にも参加している。大日本帝国陸軍支那派遣軍は1945年9月9日に南京で正式な降伏調印をして国民党軍に降伏した。だが、国民党政府はミズーリ号上の降伏調印日である9月2日を戦闘の区切りとし、翌9月3日から3日間を抗日戦争勝利記念の休暇としたことから、中華民国では9月3日が記念日となったのである。
では、中華人民共和国ではどうか。冒頭に述べたように、2014年まで正式な終戦記念日は存在していなかったことになる。この原因となるのが、天皇の詔勅が発布された1945年8月15日の時点まで、日本軍は中国大陸でいったい誰と戦っていたのかという問題である。
つまり、日本が正式に降伏するとすれば、その相手は南京に政府を置いていた蒋介石総統の下にある国民党政府ということになる。ましてや日本は中華民国も加わったポツダム宣言を受け入れることで敗戦国となったのである。
ところが中国大陸では戦線が複雑になっていた。主に日中戦争を戦う任務の帝国陸軍支那派遣軍の敵は国民党軍である。だが、北部の華北地方では関東軍(満州国駐屯の日本軍)が共産党軍(八路軍)を主たる敵として戦っていたのである。その上に国民党軍と共産党軍は互いに中国の覇権をめぐって内戦中であったのだ。
この複雑な情勢の中で支那派遣軍は国民党政府に降伏したが、問題は関東軍である。1945年、突如ソ連軍がソ満国境を破ってなだれ込んできた。1946年まで有効であった日ソ不可侵条約を一方的に破棄してのことである。関東軍はソ連軍に圧倒されて投降した。当然、関東軍の投降相手はソ連軍である。その後、ソ連軍は関東軍将兵約57万5000人をシベリアなどに強制連行し、過酷な労働に従事させる。
武装解除は支那派遣軍については国民党軍が行い、日本軍もそれに従った。しかし、関東軍に対しての武装解除は投降相手のソ連軍ではなくて中国共産党軍であった。ソ連が共産党軍に関東軍の投降兵士たちを引き渡したからである。
ここで関東軍は共産党軍による武装解除を拒否した。関東軍は共産党軍に敗れたのではなく、ソ連軍に投降したという意識があったからだろう。防衛庁戦史双書『北支の治安戦(2)』(防衛研修所戦史室)によると、関東軍が武装解除命令を拒んだ事で中国共産党軍は関東軍に攻撃を仕掛け、8月15日から11月末までの間に戦死した日本軍将校の数は2900名に上ったという。
このことからすれば、中国大陸で戦っていた日本軍はそれぞれ2つの勢力から武装解除を受け、支那派遣軍の終戦の日は明確だが、関東軍の終戦の日は明確ではない、という奇妙な形となっている。なぜなら、中華人民共和国が成立したのは1948年であり、明確な形で降伏文書が交わせない状態であったからである。
政府への反発を日本に向けさせた戦後処理
中華人民共和国が国家として正式に戦後処理に取り組んだのは、国民党軍との内戦に勝利して、中華人民共和国が設立され、さまざまな初期的問題が一応解決し、権力が安定してきた1956年になってからのことだ。この年に対日戦争裁判が開始されたのである。
中華人民共和国政府が戦犯容疑者として拘束したのは、満州でソ連軍に捕らえられ、後に移送されて来た966名(内34名は死亡)と共産党軍と戦って捕虜となった140名(内6名は死亡)、総数1106名という極めて少ない人数であった。裁判ではこの中から日本人被告を45名に絞り込み、全員に禁固刑の判決を下した。
このような判決を下す判断の基礎には日本の軍国主義に罪があり、日本の人民には罪がないとして処理をしようとする共産党政府の基本方針があった。その根底には当時、毛沢東などの指導者は厳しさを増す冷戦の中で日本を敵に回したくないという意識が働いていたといえる。
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つまり、この裁判では悪い日本人と無実な日本人を勝手に線引きして分けたうえ、自国民に対しては悪い日本人を大陸から駆逐したとして共産党政権の正当性を主張し、同時に大多数の無実な日本人には寛大な態度で接したとすることで、日本人の感情的な部分で好感を得ようとしたものであった。
さらには大躍進政策で多数の餓死者を出すなど、冷戦期の政策の誤りを糊塗(こと)するために、悪い日本人の政治指導者を非難することで、内政の矛盾に対して反発する国民の目を日本に向けさせる手段と利用してきたのである。
だが中華人民共和国政府には日本人戦犯を裁く法的根拠は薄かった。対日戦勝利記念日の正式決定が2014年までなされなかった理由もここにあるといえよう。
このように、終戦記念日は各国さまざまな政治的理由と戦後の政治の在り方で違ってきているのだ。われわれには8月15日を昭和史の中で語り継いでいく傾向が強いが、70年経った今、世界史という大きな流れの中で見ていく視点が必要ではないだろうか。より詳しく知りたい方は、拙著『日本人だけが知らない「終戦」の真実』もご一読いただければ幸いである。