■「格差」というテーマに正面から取り組んだベストセラー 地味な経済学の研究書――。フランスの経済学者、トマ・ピケティが2013年に発表した『21世紀の資本』に対して、それが最初に抱いた印象でした。にもかかわらず、この著作は発表直後から話題を集め、研究書としては異例の世界的なベストセラーになったのです。なぜそれほどの注目を集めたのか、振り返ってみましょう。 【図表】2000年間、資本家と労働者の差は埋まらなかった 1980年代から2000年代にかけて、経済学やメディアの多くは、格差という問題をやや軽視していたきらいがあります。とくに90年代から続いたアメリカ経済の持続的な発展の中で、人々の関心はもっぱら「成長」のほうに集まり、「格差」についての議論は古い話題という感覚がありました。 そんな中、格差というテーマに正面から取り組んだ大著が出た。それも、共産主義や社会主義といったいわゆる反資本主義的な政治的立場、あるいは「経済全体が成長すれば格差問題は自然と縮小する」と考えてきた主流派経済学の立場とも異なるスタイルで、格差のメカニズムを明らかにしたのです。『21世紀の資本』の独自な点は、驚くほど理論に依存していないことです。経済学では通常、何らかの仮説をもとに理論的なモデルを立て、現実の出来事や問題を分析していきます。ところがピケティが行ったのは、歴史的なものも含めた経済データをとにかく集め、複雑な分析手法も使わずにただグラフ化して見せたことでした。 ピケティが導き出したのが、有名な「r(資本収益率)>g(経済成長率)」という不等式です。資本収益率とは、不動産や金融資産などの財産からの利益率。経済成長率は平均所得の成長率とほぼ等しく、労働者の収入の伸びと考えられます。つまり資産家の財産の伸び率は賃金労働者の収入の伸び率より大きく、何もしなければ格差は必ず拡大していくことを示したのです。 それまで経済学で常識だったのは、「クズネッツの逆U字仮説」という理論でした。近代的な自由主義経済社会が始まると、急激に経済が成長する一方、格差も拡大していきます。しかし経済成長が進むと、労働力が不足して賃金が上がり、どこかをピークにして格差が縮小していくという理論です。戦後から80年代初めまでの経済データを見ると、この理論はしっかり当てはまっており、信頼されていました。 ところが、もっと長いスパンの数百~数千年といった歴史の中で見ると、経済成長とともに資産家と賃金労働者の格差は拡大しており、戦後の数十年間はむしろ例外でしかなかったのではないか。そのことをピケティは理論でなく現実のデータで示したのです。実際、80年代を境に格差拡大に転じた国がいくつもありました。 ■豊かな人がより豊かになっていく ではこの問題を、どのように解決するのか。ピケティは単純に資産税や累進税を導入し、経済的弱者の生活を支えるべきだと唱えました。そもそも60年代から80年代にかけて格差が縮小したのも、今よりもずっと強力な累進課税や相続税やインフレがあり、それを経済的弱者に再分配していたからだと指摘します。それだけ課税しても経済は成長したし、各国が協調する形で課税強化すれば、富裕層の流出も起きないというのがピケティの考えです。 主流派経済学者の立場からいえば、資産家と賃金労働者の格差拡大は、投資に伴うリスクによって説明できます。資産家層が持っている不動産や株式といった資産は、値下がりや倒産などのリスクが伴う分、経済全体の成長率よりも高い期待利回りがつけられています。そして資産規模が大きいほど、国外のものを含むさまざまな資産に投資できるため、リスクを分散できます。 一方の賃金労働者世帯も、先進国であれば資産形成をしますが、富裕層ほどのリスクは取れません。つまり、豊かな人ほどリスクを取って期待リターンの高い資産に投資でき、その分平均収益は高くなります。「リスクを取っているのだから、高いリターンがあるのは当たり前」といった意見を耳にしますが、そもそもどれだけリスクを取りにいけるかが、手持ちのお金の量で決まってしまうわけです。
■日本型の格差は豊かな3割と厳しい7割 『21世紀の資本』では、ヨーロッパ型とアメリカ型の2種類の格差が取り上げられています。ヨーロッパ型の格差は相続資産のある資産家と一般人の格差(ストックの格差)、アメリカ型の格差は年収何十億円のようなスター経営者と一般労働者の格差(フローの格差)です。日本の状況については、ほとんど言及されていません。 日本については、アメリカやヨーロッパとはやや事情が異なると私は考えます。さまざまな経済指標を見ても、日本は欧米の主要国に比べて格差が小さい。上位1%の富裕層が国内の富の何%を持っているかを示す「1%占有率」は、ピケティが設立した世界不平等研究所のレポート(2022年)を見ても、日本の1%占有率は24・5%で、欧米諸国に比べて低めです。 所得の不平等さを測る指標のジニ係数が、日本で大幅に上がっていることを指摘する向きもありますが、その大きな要因は、単純に高齢者が急激に増えたことです。それまでの人生の蓄積がそれぞれの資産量に反映されるため、世界中どこの国でも高齢者の割合が増えればジニ係数は上がります。 もうひとつの要因は、日本でまだまだ根強い年功序列型の賃金体系です。とくに会社勤めの場合、20代と50代の間で給与に差があり、それが計算上は格差として表れます。ただ日本において、これは「不当な格差」というより一般的な雇用慣行だと受け止められているのではないでしょうか。 その一方で、日本には「豊かな3割と厳しい7割」とでも言うべき格差が存在すると私は考えます。イメージとしては「持ち家あり・親を支援する必要なし・年収800万円」の世帯と、「不動産なし・親は低年金・本人は非正規ないしは賃金が低くて年収300万円」の世帯の差です。欧米型格差と異なり、極端な富裕層の存在が貧困層を苦しめている――とは言いづらい。しかし、差は小さくとも、むしろ差が小さいからこそ深刻な格差です。 日本型の格差は、再分配すれば問題が解決するという話でもありません。世帯年収が1000万円に届かない世帯まで税の累進性を高め、それを再分配するという方法はなかなか正当化されないでしょう。日本型格差を是正する方法は、慎重な検証が求められます。 ■資産家と賃金労働者の格差は拡がっているが… とはいえ、豊かな者がより豊かになる現象は他国同様に起きており、そのひとつの象徴として、近年の東京では1部屋100億円もする超高級マンションが現れています。法外な価格で異常な事態だと考える人もいるかもしれませんが、100億円でも買う人がいるからその値段がついているのであって、買い手がつくかぎりはバブルとは言えません。バブルかどうかは、後になってからわかることです。 都心部の不動産の高騰を支えているのは、国内の富裕層というよりは海外勢の投資でしょう。海外の投資家は自国の常識で「都心部以外は利便性が低い」と思い込んでいるため、都心の物件に投資が集中しがちです。住環境も治安もいいという日本郊外の特性が知られてくれば、投資先もしだいに分散し、不動産の相場もそれに合わせて変わっていくかもしれません。『21世紀の資本』の発売から約10年。ピケティが指摘した資産家と賃金労働者の格差は、今なお拡大プロセスにあります。一方で、ここにきてそれがまた反転し、格差の縮小が起きる可能性も見えてきました。 その大きな要因は、グローバル化の反転です。前述したように、60年代から80年代にかけて欧米諸国で格差が縮小したのは、各国が今よりずっと強力な再分配策を実施していたからです。その背景には、当時のソビエト連邦を中心とした、社会主義/共産主義諸国との対抗関係がありました。ライバルとしての中国の台頭は、西側諸国の人々が再分配というテーマに改めて目を向ける大きな契機になるはずです。 中国との関係が対立的になる中で、西側諸国は製造業の国内回帰を進めています。するとこれから人手不足が起き、賃金が上がっていく。60年代から80年代にかけて「クズネッツの逆U字仮説」を支えたメカニズムが、再び動き出すかもしれません。 ※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年11月1日号)の一部を再編集したものです。 ———- 飯田 泰之(いいだ・やすゆき) 明治大学政治経済学部教授 1975年生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専攻はマクロ経済学、経済政策。『経済学講義』(ちくま新書)、『日本史に学ぶマネーの論理』(PHP研究所)など著書、メディア出演多数。noteマガジン「経済学思考を実践しよう」はこちら。 ———-
明治大学政治経済学部教授 飯田 泰之 構成=川口 昌人