きょうは1月2日。みなさんは初詣は済まされましたか? 人混みの中をかきわけての参拝は大変だが、神前で2礼2拍手1礼して気分一新するのは悪くない。お賽銭(さいせん)もつい多めに張り込んでしまうというものだ。しかし日本人はなぜ賽銭を投げるのか、初詣をするようになったのはいつからか。民俗学の新谷尚紀・国学院大学教授にかねて気になっていた疑問を解いてもらった。■お金の「経済外的意味」とは
「お賽銭の多い少ないは意味がない」と新谷尚紀・国学院大教授
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「お賽銭の多い少ないは意味がない」と新谷尚紀・国学院大教授
【日本人はなぜ賽銭を投げるのか】。お金を神様に向かって投げるのは、考えてみればずいぶん失礼なしきたりだ。しかし大学に移るまで国立歴史民俗博物館などで研究を続けてきた新谷教授は、お金には貨幣としての経済的意味と経済外的意味があると指摘する。各地の古くからの祭事などでは、お金が人の身代わりとして「ケガレ」を引き受ける風習が残っているという。「お金はケガレの吸引装置」(新谷教授)というわけだ。
「ケガレたものを投げ捨てることで、投げた本人は祓(はら)え清められる。きれいな心身で神の前に立つことができる」(新谷教授)。銭洗い弁天などでお金を水で洗うのも同じ理屈で、確かにこれで貨幣価値が上がるわけではない。欧州にもローマの「トレビの泉」にコインを投げて幸運を願うなど似た習慣があるという。ちなみに「大きな金額のお金を賽銭で投げてもあまり意味はない」と新谷教授は言う。お賽銭はあくまでもお祓いのためであって、御利益を購(あがな)うわけではないからだ。
一方、参拝のマナーは若い世代に難しいのか、雑誌の年末年始特集などで必ず取り上げられる。しかし【2礼2拍手1礼はなぜ】なのか。しかも古くから由緒のある出雲大社や宇佐八幡神宮は4拍手だ。「4=死」に通じないのか。
神社における拍手のルーツは古代日本の貴人への挨拶にあるという。拍手は身分の高い人に対する敬意の意思表示だった。邪馬台国のことを記した「魏志倭人伝」の中にもあり、日本書紀には持統天皇が即位するとき朝廷の百官が一斉に拍手したと記述されているという。朝廷と関係が深い伊勢神宮には「八度拝」という儀礼が残っている。
神職の人たちが起拝と座拝を4回行い座った状態で8回拍手を打ち、これを2回繰り返す。伊勢神宮の古式の参拝のあり方だ。新谷教授は「出雲大社などは伊勢神宮に遠慮する形で4拝、そのほかの神社はさらに半分の2拝にとどめたのではないか」と古代の事情を推測する。「4」は古代では「よ(ん)」であり「し」ではなく不吉ではなかった。「『死』という言葉自体もまだなかっただろう。古事記では死後の国を『黄泉(よみ)の国』と表現している」(新谷教授)。
■鉄道が加速させた「初詣」の習慣
平安時代の宮中の鏡餅の図(新谷尚紀教授提供)
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平安時代の宮中の鏡餅の図(新谷尚紀教授提供)
そもそも【初詣はいつから始まったのか】。これは意外に新しく江戸後期、本格的に普及したのは明治時代からだという。もともと元旦は、新年に訪れる「年神様(歳徳神)」を自宅でお迎えするのが習わしだった。神様は清浄さを好む。だから大掃除や門松、しめ飾りをして、元旦は外出せず神様を迎えていたのだ。門松の歴史は古く、鎌倉時代の「徒然草」には元旦の朝の都大路に門松が立ち並ぶようすの描写があるという。
しかし江戸時代の中後期からは江戸などの都市部で歳徳神の来訪を待つばかりではなく、人々の方から縁起の良い方角にある社寺に参詣する「恵方参り」が流行した。新谷教授は「元旦に行う初詣はこの恵方参りから展開したバリエーションの一つ」と分析する。
「明治期に入っての鉄道開設が初詣普及に拍車をかけた」と新谷教授。有名な社寺への参拝が出来るようになったためだ。1872年(明治5年)に新橋―横浜間が開通するや川崎大師の初詣客が増えたという。97年(同30年)には成田山新勝寺への参拝客が利用する成田線が開通した。大みそかの深夜運行を始めたのは現在の近畿日本鉄道で、開業したばかりの1914年(大正3年)のことだという。
根本的な疑問も湧いてくる。【正月はなぜ「おめでたい」のか】。民俗学的には、正月は「年神様がやって来て、みなに1歳ずつ年齢を授ける日」だ。大みそかには過去の1年の良いことも悪いこともすべてリセットしてしまい、元旦にかけてはいわば真空状態。そこで、あらかじめ「おめでとう」と言って祝う「予祝」の言葉を口に出し、年神様から運気を招き寄せ新しい1年を幸運の年にしようとする狙いがあるという。さらに、めでたくも健康な形で年齢を重ねることができてお互いによかったね、と祝い合う意味もある。
正月のおせち料理が、縁起の良いとされる食材を集めていることは知られている。「めでたい」タイ、「喜ぶ」昆布巻き、「豆に暮らす」黒豆――。12世紀中ごろに編集された史料でも平安時代の宮中における正月膳は縁起物ぞろいだった。鏡餅の上には代々子孫を残す意味を込めた「譲り葉」に黄金色に輝く「橘(たちばな)」が飾られている。現在でいえば橙(だいだい)だ。
縁起の良いおせちの食材
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縁起の良いおせちの食材
正月になると話題になるのが地域ごとの雑煮のスタイルの違い。特に【東日本の角餅に対し西日本は円餅】はなぜか。稲作中心の日本には稲には魂が宿っているという「稲魂」信仰がある。米を炊き、ついてできた鏡餅はその象徴だという。「餅文化は京都が中心で円形が基本。円い餅で魂の形を表そうとしている」(新谷教授)。それが東国では、単なるごちそうとして四角い箱形に納められ、保存に便利な角餅が合理的として食べられるようになったらしい。
お屠蘇(とそ)も正月ならではの食材だ。酒やみりんにサンショウ、ニッキ、防風などの薬草をつけ込んでつくる。中国から伝わったという。【屠蘇が全国普及したのはいつごろか】。古来からの正月風景に溶け込んでいるかのように見える屠蘇だが「全国的に飲まれるようになったのは戦後の高度経済成長期前後からではないか」と新谷教授は言う。「マスメディアの影響が大きい。各地の農村や漁村ではそれ以前はほとんど普及していなかった。正月といえばどぶろくや清酒など、とにかく祝い酒が優勢だった」(新谷教授)
1月2日の明け方に見た夢が「初夢」。みなさん吉夢だったでしょうか?【初夢はいつから初夢か】。平安末期の西行法師に「たつ春の朝よみける」として「年くれぬ春来べしとは思ひ寝にまさしく見えてかなふ初夢」と詠んだ和歌がある。当時の初夢は節分から立春にかけて見る夢だった。江戸時代でも「初夢は1日の明け方、2日、3日とさまざまだった」(新谷教授)。正月のとらえ方が現在とは違って、大みそかから三が日、さらに七草からその先と期間が長かった。
農業と水産業の従事者が多かった高度経済成長期までの日本では、冬季は時間に比較的ゆとりのある農閑期だった。新谷教授は「小正月の1月15日までが正月休みという感覚だった」と指摘する。あまりに休みが長過ぎると徳川8代将軍吉宗の時代には、正月を7日までに短縮したというエピソードが伝わっているくらいである。正月三が日という言葉は古くからあっても、元旦から3日間はそれでひとくくりという感覚で、その期間の夢は全部初夢になるわけだ。
正月のときくらいは、そんなのどかな時代にあやかりたい。多くの職場で仕事始めの日となる5日朝まで、電子版読者の皆さんもゆったりした時間を過ごされますように。(電子整理部 松本治人)