日本円の実力が50年ぶりの低水準になっている。みずほ銀行チーフマーケット・エコノミストの唐鎌大輔さんは「日本だけマイナス成長を繰り返しただけでなく、日本特有の情緒的なコロナ対策の結果だ。『経済より命』を優先した代償は大きい」という――。
■「50年ぶりの円安」が意味する日本の深刻さ
2月17日、国際決済銀行(BIS)から公表された1月分の実質実効為替相場(REER、narrowベース)は69.81と1982年10月以来、約40年ぶりの安値を更新した。
しかし、1973年や1974年の平均が69.8~69.9程度なのでヘッドラインでは「50年ぶりの円安」との表現が躍っている。
ちなみに比較可能な時系列が短くなるが、より多数の通貨を対象としたbroadベースでは67.55と過去最低を更新していることも目を引く。
REER(narrowベース)の低水準に関しては2015年6月の70.64が一部で「黒田ライン」と呼ばれ注目されていた。
これは2015年6月10日にドル/円相場が125.86円とアベノミクス下での最高値をつけた時期であり、同日の衆議院財務金融委員会で「実質実効為替レートがここまで来ているということは、ここからさらに実質実効為替レートが円安に振れるということは、普通に考えればありそうにない」と語ったことに由来している。
今やREERは黒田ラインを▲1%以上割り込んでいる。7年前、総裁自らの口から「ありそうにない」と言われた事態が進行中なのである。
■「情緒的なコロナ対策の結果としか言いようがない」
ここまでで違和感を覚えた読者もいると思うが、ドル/円相場の最高値に関し、2015年6月は125.86円、2022年1月は116.35円であり、名目為替レートに関して言えば10円近くも現在の方が円高である。
図表1に示すように、名目実効為替相場(NEER)ベースの円安は穏当なものにとどまっている。
具体的に長期平均(20年平均)と比べた場合、2022年1月のREERは▲19.3%過小評価されているが、NEERは▲6.9%にとどまっている。
REERとNEERの差は諸外国との物価格差なので、ここからは海外と比較した日本のディスインフレ状況が著しい現状が見て取れる。日本の物価情勢が芳しくないことは元々の話ではあるが、REERとNEERの格差がここまで開いたことはない。
こうした状況に至った背景は明確である。世界の景気循環が均質化している現代において、過去1年は日本だけが断続的にマイナス成長を繰り返した。その理由はこれまで何度も論じているが、日本特有の情緒的なコロナ対策の結果としか言いようがない。
■「経済の体温」は下がるばかり…
2021年、欧米は潜在成長率の倍速以上で成長したのに日本だけそうならなかったのは、政策的に消費・投資意欲をそぐ措置が慢性化していたからに他ならない。
必然的に「経済の体温」である物価に関し、日本とそれ以外の国で差は開く。
もちろん、諸外国は程度の差こそあれ、物価上昇に順じる格好で賃金も伸びている。ということは、今後、ドル/円相場などに象徴される名目相場の水準がどうであれ、実質相場の停滞を背景に日本が国際貿易の世界において「買い負け」することが懸念される。
実際、魚介類や肉類の買い付けにおいて中国に競り負けるというニュースは近年散見されるようになっている。世の中はドル/円相場の水準に着目しがちではあるが、REERの下落も日常生活に多大なる影響を持つことは忘れてはならない。
いや、むしろ名目のドル/円相場が動意を失っている以上、為政者はREERを注視した方が賢明ではないかと思える。
■観光立国化の起爆剤、安い日本の始まり…
なお、「REERが安い」という事実は今後、海外から日本へやってくる人々が目にする価格設定が相対的に安く感じることも意味する。
言い換えれば、REERが大幅に下がったことで「コロナ以前と比較して購買力が著しくパワーアップした人々が海外からやってくる」という状況が到来することになる。
これを「観光立国化の起爆剤」と捉えることも可能であると同時に、「安い日本の始まり」と捉えることも可能である。
いずれにせよ経済活動において「コストが安い」という事実は重要な競争力の源泉であることは間違いないのだから何とかこの状況を活かして日本経済の復調を図るしかない。
こうして考えると従前継続され、非科学的な措置だと批判されてきた入国規制の在り方などは長期的なビジョンに欠ける愚策であったと言わざるを得ない。
元より人口が減少傾向にあり、資源も持たない日本は海外から人やモノを受け入れない限り、活路を見いだすことはできない。より長い時間軸で見通した場合、「安い日本」に魅力を覚えて海外から人・物・カネが集まってくるようになれば、いずれ経済・物価情勢も上向く目も出てくるであろう。
しかし、国内に対しては行動制限、海外に対しては入国制限を決め込んでしまっていては需要が喚起される道が全く見いだせない。 写真=iStock.com/monzenmachi ※写真はイメージです – 写真=iStock.com/monzenmachi
■「経済より命」の大きすぎる代償
本コラムへの寄稿でも繰り返し論じている点ではあるが、「経済より命」という大義の下で取られている根拠薄弱な防疫政策の結果が低成長ゆえの低物価につながり、REERの下落に直結しているという事実を直視する必要がある。
2月にはコロナ分科会が出口戦略の可能性を示唆したが、筆者は国政選挙を控える現政権の下ではまず無理だろうという印象を持っていた。
案の定、2月17日、岸田首相は新型コロナウイルスの感染症法上の位置付けを現在の「2類相当」からインフルエンザ並みの「5類」へ引き下げるかどうかを問われ、「このタイミングで分類を変更するのは現実的ではない」と退けた。
高確率で第6波の記憶も新しいうちに第7波を懸念して類似の騒ぎが起きる可能性が非常に高いと言わざるを得ない。
そうした政策姿勢が高支持率に直結する事実はもはや動かしようがないが、結果として他国との成長率や物価の格差が一段と開くことにも気づいてもらいたい。
■耳あたりの良い防疫政策より、経済の正常化を
欧米は経済正常化を優先するのだから、元々日本を凌駕していた物価はさらに上離れする。当面は金利差拡大を理由とした名目ベースの円安は元より、物価差拡大を理由とした実質ベースの円安圧力も時々刻々と蓄積することが見えている。
上述したように、資源を筆頭に、あらゆるシーンで日本が諸外国に対して「買い負け」するという事実が伝えられる可能性も高い。
「経済より命」という短期的には耳あたりの良い防疫政策によって日本経済が中長期的には失うものは非常に大きいように思えてならないが、人口動態上、目先のリスクを回避することに徹する高齢化社会では受け入れるしかない運命なのだろうか。
世論は難しいとしても、金融市場のアラーム機能(端的には円安)を通じて為政者が危機感を覚え、経済正常化に舵を切ることを切望する。
———-唐鎌 大輔(からかま・だいすけ)
みずほ銀行 チーフマーケット・エコノミスト
2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、JETRO入構、貿易投資白書の執筆などを務める。2006年からは日本経済研究センターへ出向し、日本経済の短期予測などを担当。その後、2007年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向し、年2回公表されるEU経済見通しの作成などに携わった。2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。著書に『欧州リスク:日本化・円化・日銀化』(東洋経済新報社、14年7月)、『ECB 欧州中央銀行: 組織、戦略から銀行監督まで』(東洋経済新報社、17年11月)、『リブラの正体 GAFAは通貨を支配するのか?』(共著、日本経済新聞社出版、19年11月)。TV出演:テレビ東京『モーニングサテライト』、日経CNBC『夜エクスプレス』など。連載:ロイター、東洋経済オンライン、ダイヤモンドオンライン、Business Insider、現代ビジネス(講談社)など
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(みずほ銀行 チーフマーケット・エコノミスト 唐鎌 大輔)