日本車はガラケーと同じ末路をたどるのか?

 世間で盛んに言われていることがある。それはこんな三段論法だ。

まもなく電気自動車の時代が来る

技術がコモディティ化して参入障壁が下がる

中国車の時代がやってくる

こういう話をする人は、まず例外なくフィーチャーホン(ガラケー)の覇権時代から転落した日本の家電メーカーの携帯電話やスマートフォンの話を念頭に置いて、あるいは直結的になぞらえて話をしている。

基本的な概念としては日本の高度経済成長時代を支えた垂直統合型ビジネスモデルが終わり、水平分業型に移行していくという考え方だ。それ自体が間違っているわけではない。

寄り道的に解説を差し挟もう。垂直統合とは、別の言い方をすれば自前主義である。商品企画から設計、生産、販売まで、自社または支配下にある系列企業に集中することで、トップダウン型の製品作りを行う方法だ。

対する水平分業型は、市場から用途や目的に適合する部品を集めてきてアッセンブルを行う。多少大げさに言えば、商品企画のみが命で、生産は半製品部品を調達して組み立てるだけだし、販売も卸売りをしておしまいだ。基本的には自由経済の原則に則り、アッセンブルメーカーがいちいち方針や目標を指図しなくても、自由競争の中で汎用部品の性能と価格が磨かれ、それを適正に調達することで製品は良くなる。

●ビジネスモデルへの誤解

本論に戻ると、この三段論法は、おかしなところがいろいろとある。

第1に全盛期の状態が自動車メーカーと家電メーカーでは違う。フィーチャーホンは日本市場でこそ圧倒的なシェアを誇ったが、世界市場に討って出られたのかと言えばそうではない。それには明白な理由がある。家電メーカーはdocomoやau、Softbankなど日本のキャリアと共同で商品開発を行い、それをキャリアが一括買い上げするビジネスモデルだったからだ。

だから海外製品に比べて性能面でいくら優れていようが、海外に進出することはできなかった。もちろん通信方式も国ごとに異なるので、そこにも障壁はある。しかし、それ以上に自分で商品企画を完全に掌握しておらず、共同企画なので、国外に商品を出すわけにはいかない。そういうキャリア依存のビジネスモデルばかりのところへ、アップルがキャリアから独立した自社企画による自社製品を製造して流通させた。これは本来キャリアと完全に分断されたビジネスモデルだったのが、後にキャリアであるSoftbankが、iPoneの販売権を取得したから話はさらにややこしくなった。

冷静に考えれば、キャリアにとっては製品企画に参加して一括買い取リスクを冒す必要はない。利益構造は多少変わるかもしれないが、外部企業が勝手に製品を作り、その販売に関与することで利益の分け前が得られるのであれば、それはそれでビジネスとして成立する。家電メーカーのフィーチャーホンが急落したのは、自力で開発して自力で売るというビジネスへの変化を目前に見ながら、キャリアとの関係を清算できなかったところにある。

では、自動車産業はどうだろうか? まず企業のビジョンと製品のコンセプトをしっかり自社で作っている。と言うよりも、ほかの誰もやってくれない。さらに国外での販売においても自ら血を流して問題解決を図ってきた。だから日本の自動車は世界のどこに行ってもそれなり以上のシェアを確保しているし、米国との激しい貿易摩擦を乗り越えることができた。

1980年代、日米貿易摩擦が重大な政治問題となり、日本の自動車メーカーは輸出を制限された。その解決のために、彼らは莫大な投資を行って生産拠点を米国に新設し、現地に利益を配分して摩擦を解決した。もちろん貿易摩擦だけが問題ではなく、1985年のプラザ合意から始まった急激な円高ドル安への対策もあったが、いずれにしてもそういう問題に自動車メーカーは自分の力と責任で立ち向かったのだ。

以後このメソッドを援用して、他地域へ進出する度に生産拠点を設け、可能な限り貿易摩擦を引き起こさない施策を採った。それらの工場から上がる収益は各国経済にとって無視できない利益を継続的に稼ぎ出している。

要するに日本の自動車産業は、国際経済との共存共栄という形で各国に深く食い込んでいるのだ。自動車の世界で製品を売るということは、国家間交渉レベルの調整が求められる。それができるのは実績と信頼があればこそで、中国にこうした視点があったならば東アジアの緊張は起きていない。日本の家電メーカーは安い労働力を求めて海外に工場進出をすることはしたが、国と国を経済協力的に結び付ける役割は残念ながら果たしてこなかった。

●ラストワンマイルが絶対に必要な世界

もう1つ重要な視点がある。それは販売網だ。一般的に家電品は量販店や通販で買うものだが、クルマはメーカー系ディーラーで買うのが圧倒的主流である。クルマの場合、メーカーは売っておしまいというわけにはいかないし、ユーザーも買っておしまいでは困る。ディーラーはセカンドユーザー、サードユーザーに商品が渡ろうとも、そのライフタイムが終わるまで責任を持ってメインテナンスを行わなければならない。

並行輸入だからとか、メーカーは同じでもほかの店で買ったクルマだからという理由でメインテナンスを拒否すれば、公共の安全が脅かされる。だからメーカーと密接に結び付いたディーラー制度によって、個別には採算が合わなかろうと、社会的責務として修理や整備を行っていく必要があるのだ。

責任だけでなく頻度も違う。クルマには法定点検も車検もあり、商品ライフタイムで一度も修理、整備に入らないということは通常あり得ない。家電品はそもそもそのライフタイムにおいて、修理が必要になるケースがクルマより圧倒的に少ない。そういう頻度だから家電品は販売店と補修拠点を別に分け、運送会社のデリバリーを使って限定的な補修拠点で済ますこともできるだろうし、その不備がクルマと同レベルで命や安全にかかわることは通常ない。

つまりアフターサービス面で、責任から考えても頻度から考えても、クルマは販売・整備を水平分業することが難しい。ラストワンマイルのサポート体制を築かない限りクルマを売る責任が果たせない。

●技術の肝はエンジンではない

大きな絵柄はこれまで述べてきた通りだが、エンジニアリングの領域でも難しい部分が大いに残っている。エンジンをモーターに置き換えれば、汎用モーターやバッテリーが数多く存在することから水平分業が可能に思われるかもしれないが、実は自動車設計のノウハウとして最も難しいポイントはシャシーにある。走る、曲がる、止まるという基本を自然に行うだけでも膨大なノウハウがいる。加えて衝突安全性能や軽量化技術、低コスト化に関して、設計だけでなく膨大なデータと生産技術が求められる。

リーマンショックで米国ビッグ3から早期退職したエンジニアを大量に獲得できたテスラはかなり幸運だったが、そうして多くのエンジニアを獲得してさえ、テスラのシャシー性能は決して高いとは言えない。

具体的に言えば、挙動の情報フィードバックが希薄過ぎる。高度に細分化されたエンジニアは、メーカーが長年積み上げてきた自社のクルマへのビジョンと知見があるからそこで能力が発揮できるのであって、そうしたリファレンスがないところで「さあクルマを作れ」と言われても、クルマを作る基準線が保てない。

読者の中には「そんなこだわりが時代に置いていかれる原因になる」と考える方もいるかもしれないが、キャリアにビジョン設計の多くを握られて、自社の製品ビジョンが十全に機能しなかった家電メーカーと、ビジョンを持って障壁を乗り越え、今なお生き残りのためのビジョンを必死に更新し続けながら製品を作っている自動車メーカーとのどちらが市場競争を勝ち残っているのかを一考していただきたい。

●ガラケーと同じ末路をたどることはない

さて最初の三段論法に戻ろう。「電気自動車の時代」という言葉は定義が曖昧だ。電気自動車は米国の規制によって増えざるを得ないのは確かだ。だが、それが内燃機関に完全に置き換わるようなことにはまずならない。なぜなら世界の国の中で、すべての自動車を電気に置き換えられるほどインフラ電力に余剰がある国は1つもない。仮に超長期的に見ればそうなるとしても、相当に時間がかかるだろう。

2つ目の「技術がコモディティ化して参入障壁が下がる」という点については、クルマ本体についてはシャシー技術がネックになり、販売やサービスの面についてはコモディティ化はしようがない。

最後に中国の時代が来るかどうか。中国の経済成長が続けば緩やかに中国車のシェアが上がっていくことはあるだろう。だが、それがフィーチャーホンが中国製スマホに取って代わったような劇的な形で、ここ10年程度の間に起きるかと言えば、それはあり得ない。

(池田直渡)

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