バブル崩壊後の「失われた30年」で製造立国としての地位を失った日本。かつて「総合電機メーカー」の雄だった日立製作所もリーマンショック後の2009年3月期に7873億円もの巨額赤字を出したが、その後、見事にV字回復を果たした。
2021年3月期に過去最高の5016億円の純利益を叩き出し、2022年3月期も純利益5500億円とさらなる増益を見込む。グループの総従業員数は35万人。取引先企業まで含めた「日立経済圏」はいまや220兆円規模にのぼるとされ、国内ではトヨタ自動車に匹敵する“最強グループ”になっている。
なぜ日立はこれほど力強く甦ったのか。
明治末期の1910年創業の日立は、高度成長期を経て、原子力発電などの重電、鉄道などの社会インフラ、テレビ、洗濯機や冷蔵庫などの白物家電に至るまで、あらゆる分野の製品を手がける国内最大の総合電機メーカーとして発展してきた。『経済界』編集局長の関慎夫氏が解説する。
「グループ会社は800社超。かつて“日本一子会社を持つ会社”といわれ、一時は上場子会社が22社あった。技術重視で、歴代社長は全員技術屋。“石を投げれば博士に当たる”といわれるほど、高学歴の研究者、技術者が多いのが特徴です」
多くの優秀な人材を抱え、幅広い事業に手を伸ばしていたことで「何でも屋」「巨艦」とも呼ばれた。だが、バブル崩壊後の1990年代初めは、巨体ゆえの弱点が表面化した。
「各工場に大きな権限が与えられるなか、セクショナリズムが生じていた。各事業間の連携が難しく、肝心の総合力を発揮できなくなっていったのです。変化しようにも、“大艦巨砲主義”の悲劇といえばいいのか、簡単には方向転換できなくなっていました」(関氏)
人口減少・少子高齢化が進むなか、国内での大幅な成長は見込めなくなっていた。韓国や台湾、さらには中国企業が予想を上回る急成長で追い上げ、日立の存在感は徐々に薄れていった。
経営改革のなかで同社は2001年に女子バレー、翌2002年に女子バスケと名門チームを相次いで廃部するなどしたが、抜本的な改善に至らないまま、リーマンショックを迎える。同社は国内の製造業として最大の赤字を計上した。
今日の姿からは想像しにくいが、あの時、日立は間違いなく「沈みゆく巨艦」と見られていた。それをここまで復活させたのは、危機下で舵取りを任された新たな経営トップの手腕だった──。
日立が最大の危機に陥った2009年、白羽の矢が立ったのが、日立製作所副社長を経て、日立マクセル会長など子会社に転出していた川村隆氏だった。近著『ゲームチェンジ日本』(MdN新書)などで日立の事業構造の転換を分析している真壁昭夫・法政大学大学院教授が指摘する。
「これほどの大企業で、子会社から呼び戻されて本体トップに就任するのは異例の人事。後継の中西宏明氏(故人)も子会社からの抜擢であり、決して“主流派”ではない人物が大きな変革に取り組むことになったのです」
それまでとは一線を画す“非主流派”の川村氏は、このままでは日立は潰れるという強烈な危機感を抱き、総合電機メーカーとして広げていた事業構造の「選択と集中」を進めていった。
「これまでのように重電から家電まで幅広く扱うビジネスモデルでは生き残れないと判断。鉄道システムなどの『社会インフラ』と、AI(人工知能)やIoT(モノのインターネット)を活用した最先端の『IT分野』に経営資源を集中させる事業構造の大転換に着手しました」(真壁氏)
川村氏は、子会社に転出していた自身に社長就任の話があり、悩んだ末に引き受ける際の心境を自著『ザ・ラストマン』で、〈一度はなくしたも同然の命。一生に一度は大きな組織を動かす意思決定者になるのもいいのではないか〉──と振り返っている。
表題「ザ・ラストマン」は船長のように〈最後に責任を取ろうとする意識のある人〉の意だといい、覚悟を持って火中の栗を拾ったことが伝わってくる。