本橋信宏氏がふり返る「北公次の告白」ジャニーズ性加害を見て見ぬフリしたメディアへの提言

【注目の人 直撃インタビュー】  本橋信宏(作家)  ◇  ◇  ◇  ジャニーズ事務所の性加害問題が風雲急を告げている。所属タレントのCM打ち切りが相次ぐ中、そのきっかけをつくったのは被害者たちの勇気ある告発だ。 北公次の悲痛な叫び…性被害を「新聞も女性週刊誌もテレビもリポーターも取り上げない」  しかし35年前、元フォーリーブスの北公次(2012年没=享年63)がその著書「光GENJIへ」(データハウス)で、ジャニー喜多川氏からの性被害をすでに告発していた。が、当時の大手メディアはその存在を完全無視。同書のゴーストライターだった作家が近著「僕とジャニーズ」(イースト・プレス)でその内幕を明かした。  ──「光GENJIへ」の著書や映像が地上波で取り上げられて話題です。そもそもゴーストを担当することになった経緯は?  当時私は32歳のフリーライターで、もともと仕事上で付き合いのあった村西とおる監督が、所属タレントの梶原恭子と田原俊彦のスキャンダルを巡り、ジャニーズ事務所と敵対関係にあったんです。監督はジャニーズに一矢報いようと、電話回線を引いて「ジャニーズ事務所(秘)情報探偵局」を開設。ジャニーズの裏情報を募った。  その中に「北公次がジャニー喜多川と同棲していた」というものがあったんですよ。それでスタッフが1978年のフォーリーブス解散後、覚醒剤による逮捕を経て、地元の和歌山県田辺市で土木作業員をしていた公ちゃんを捜し出し、東京に連れてきた。それで私に白羽の矢が立ったんです。  ──初対面の印象は?  1988年の夏、ホテルニューオータニのラウンジでした。公ちゃんは、かつてのオーラは全く消えていて、生気はなく、目はうつろで土気色の肌をしていました。お金がないから、薬物はやめていたけれど覚醒作用がある風邪薬を大量摂取していたようです。 ■4日目の夜、北公次は関係を話し出した  ──それで監督による「北公次再生計画」と“暴露本”の取材が始まります。  当時、ジャニー氏の性加害は都市伝説の類いでした。しかし、私は単なる暴露本ではなく、地方出身の貧しい少年が紅白に7回出場するまでの栄光を駆け上がり、そして挫折していく過程をライフヒストリーとして書きたかった。その中で、ジャニー氏との関係を描きたかったんです。小説や映画に駄作はあっても、人の半生には駄作はひとつもない。私はそこに興味がありましたから。  しかし取材は難航を極めました。浅草ビューホテルで、生い立ちから逮捕まで聞いていったのですが、「ジャニー氏と親密な関係にあったというのは本当か」と何度か水を向けても、「そういうのは単なる噂で俺は知らない」とはぐらかされてしまう。それが変わったのが4日目の夜でした。  ──きっかけは何だったのですか?  前日、監督と話をしたようです。監督は、当時ブレークしていたMr.マリックを見て、ジャニーズに負けずにラスベガスなどで世界を相手に活躍できるのはマジックだと確信し、北公次にマジシャンとしての再出発を提案。資金提供も約束していた。監督は本気でした。「あなたは世界的なエンターテイナーとして生まれ変わるのだから、ここですべてをさらけ出して話すべきだ」という監督の情熱に公ちゃんもほだされたんです。  ──結果的にそれがジャニー氏による性被害者の初告白となりました。北公次は「実は謝らなくちゃいけないことがある。ジャニーさんとの関係は、実はあったんだ……」と堰を切ったように話し始めたそうですね。  公ちゃんは、ジャニー氏にスカウトされ、新宿にあったジャニー氏の部屋を住居として与えられた。当時16歳。そこで女性を知る前にジャニー氏との初体験を余儀なくされたこと、毎晩のように行われる口淫や肛門性交をデビューしたい一心で我慢したこと、ジャニー氏との関係はその後4年半に及び、ジャニー氏と同性愛者でない公ちゃんが“夫婦のような関係”になったことなどを一気に話しました。話は深夜にまで及び、終わった後は、公ちゃんも私も放心状態でした。  ──その後、2週間で書き上げた「光GENJIへ」は、35万部を超える一大ムーブメントとなりました。  それでも、ヤク中の妄想だとか、心ない言葉を投げかけられ、完全なゴシップ扱いでした。テレビ局や新聞社にかけあっても鼻で笑われ、どこも取り上げてくれない。完全になかったことにされていました。扱ってくれたのは、一部の夕刊紙や実話誌だけです。当時から、ジャニーズに対する忖度やタブーは存在していたんです。命を懸けた告白なのに、どこも扱ってくれないことに公ちゃんは苛立ち、絶望感を抱いていましたね。

覆面作家の禁を破り、内幕本を緊急出版

北公次は「光GENJIだって、他のタレントだって、みんな同じ目に遭っていると思う。みんなウラではツラいんだぜ。20年もおなじことをやってるんだ。もうやめろよ。タレントがかわいそうだぜ」と怒りを爆発させている(「映像版 光GENJIへ」 制作・著作=村西とおる事務所)

 ──それが1年後の1989年、ドキュメンタリービデオ「映像版 光GENJIへ」につながっていきます。本橋さんはこちらでも、「太田春泥」名義で、村西監督率いるダイヤモンド映像のターザン八木、日比野正明らと共に監督として撮影に挑むことになります。  原一男監督の「ゆきゆきて、神軍」のようなドキュメンタリー映画も意識していましたが、とにかく映像の監督は初めてなので大変でした。この時は公ちゃんとはだいぶ親しくなっていて、台本もなしに自由に話してくれました。ワンカットで目線を一度も外さずカメラに向かって激白する姿は、今見ると、つたない映像ですが、逆に裁判資料にもなりえる貴重な証言になっています。ただ、ビデオは当時、全然売れなかったようですが(苦笑)。 ■四半世紀前に元Jr.7人が性被害を告発  ──さらに驚いたのは、今回の端緒となった英BBCによるジャニー喜多川告発番組のはるか昔に、7人の元ジャニーズJrが顔出しで被害を告発していることです。  村西監督は「何としてもケツを掘られた少年を捜すんです。ケツです、ケツ!」と連呼していました。監督らしい露悪的な物言いですが、今回の性加害問題の核心をついていた。強制的な肛門性交は、当時でも傷害罪が成立したし、相手が未成年であれば、法改正前の当時でも逮捕案件です。  それで7人の告白者のうち、実際に肛門性交の被害に遭った3人の少年を捜し出しました。男性の性被害者は、その屈辱感や恥ずかしさから、告白までに時間がかかったり、口を閉ざす人が多いのですが、少年たちは、大スターだった公ちゃんがカミングアウトしたことに勇気づけられ、告白を決意したんです。  一方で、当時はLGBTQの概念もなく、警察に被害を訴えても、性加害は男性が女性にするものという固定観念があり、取り合ってくれなかった。今回も黙っていると、公ちゃんや少年たちの告発も、SNSなどでウソのものとされてしまう。公ちゃんの遺志を継ぐため、これは書き残しておかないといけないと考え、覆面作家の禁を破って、その内幕を描きました。 ■大手メディアは被害者救済基金をつくるべき  ──大手メディアや警察は今までずっとスルーしてきたわけですね。  ジャニーズ事務所は、トシちゃんの件では、村西監督が出演していたテレビ局や記事化した大手出版社に強烈な圧力をかけてきましたが、「光GENJIへ」の版元や映像版には手を出してこなかった。今、地上波のテレビ局からの問い合わせが殺到していますが、これはある意味、“サブカルチャーの逆襲”とも言えるわけです。  公ちゃんの思いが日の目を見るまで35年もかかった。やはり日本は外圧でしか変われないのか……。あの時、大手メディアがしっかりこの問題を報じていたら、被害の拡大を食い止めることができたのではないか。東京のド真ん中で、半世紀以上にわたって、数百人、下手すると1000人以上の少年たちが被害を受けてきたんです。見て見ぬフリをし続けた大手メディアの責任は重い。テレビ局や新聞社も出資して被害者救済のための基金を設立すべきだと思います。 (聞き手=平川隆一/日刊ゲンダイ) ▽本橋信宏(もとはし・のぶひろ) 1956年、埼玉県所沢市生まれ。早大政治経済学部卒。執筆内容はノンフィクション、小説、エッセー、評論。著書多数。村西とおる監督の半生を描いた「全裸監督」はNetflixによって映像化され、世界的大ヒットとなった。

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