【今日の突破口】
次々と政党が結成されて数だけからするなら、いまや新党ブームの時代といえるかもしれない。しかし、その内実は惨憺(さんたん)たるものだ。耳朶(じだ)に心地よいスローガンを並べて選挙民にこびるだけの政党、民主党への反発だけを共通項にして集まった政党、次の選挙で当選が危うい者たちが代表の人気にすがろうとする政党など。
見てくれはさまざまだが、共通するのは華やかに見えた小泉政治への郷愁だろう。「小さな政府」を唱え、「構造改革」を掲げて、「郵政民営化」を加速し、「地方分権」を称賛するという、「昔の名前」だけが羅列されているにすぎない。愕然(がくぜん)とするのは、郵政民営化に反対した政治家が代表である新党ですら郵政の完全民営化に転じたことだ。それが政治家としての生き残りのためというのなら分からないでもない。しかし、もはやそんな状況でもないはずだ。
90年代に守旧からの脱却で始まった小沢「改革」は、抵抗勢力をぶっつぶす小泉「改革」でピークを迎えた。昨年は、その小泉「改革」を全面的に否定する新小沢「改革」によってひっくり返されたから、今度はその新小沢「改革」をまたひっくり返せばいいというわけだ。これは政治でもなんでもなくただの愚劣なゲームにすぎない。情けないのは自民党の多くの人が、口を開けば「小さな政府」「構造改革」と唱えることで、自分たちを崩壊させたのが何なのか、いまもよく分かっていないらしい。
しかも奇妙なことに「小さな政府」を唱える政治家の多くは、同時に財政赤字の解消も主張している。しかし「小さな政府」とは収入も少ないが支出も少ない政府のことであり、日本は先進国でも際立った「小さな政府」の国だ。その国がもっと政府を小さくして、どうして累積財政赤字を縮小することができるのか。貧乏な家が、収入を減らして支出も減らし、それでどうして年収の1・8倍の借金を返済できるというのだろうか。なんの留保もなく「小さな政府」を口にする政治家は、この問題に真剣でないか、あるいは国民を欺こうとしているのだ。
それは「構造改革」についても同じことがいえる。「構造改革」といえば格差やデフレを招来したものとして経済的観点から議論されることが多いが、むしろその政治制度的な側面こそもっと批判されるべきだろう。他国から要求された制度変更を「構造改革」の名のもとに遂行することによって、日本の政治は機能不全に陥った。ことに官僚制度は回復不能なレベルにまで破壊されてしまった。新党がこの破壊を加速しようとするのは当然かもしれないが、自民党まで固執しているというのは、自分たちを窮地に追い込んだ仇敵(きゅうてき)に、いまも恋々としているわけで、こっけいという以外にない。
最も気になるのは、いまの政治的混乱の中に若い政治家の姿がほとんど見えないことだ。しかし、この事態も世襲制や老害のせいにすべきではないだろう。人工的な政治家養成機関も、テレビという政治家保育器も、世論に迎合する政治屋しか生みだせなかったということなのだ。そしていまも、危殆(きたい)に瀕(ひん)した政党の片隅に残る良質な部分に、いちるの望みを託すしかないというのが、日本の政治なのである。(ジャーナリスト・東谷暁)