白石市特産の白石和紙が存続の危機に立たされている。市内にただ1軒残る白石和紙工房が、職人の高齢化などを理由に間もなく紙すきを終える。市は4月から 後継者の育成に乗り出すが、一連の手仕事を習得するには時間がかかる上に採算の見通しも厳しく、次世代に引き継げるかどうかは不透明だ。
「みんな年を取り、道具の修理や調達も難しくなった。周りは宅地化が進み、音と煙が出て迷惑を掛ける。条件が重なったのでやめることにした」。鷹巣地区に工房を構える遠藤まし子さん(91)は淡々と話す。
白石和紙は江戸時代、仙台藩が生産を奨励。全国の評判を呼んだが、明治時代に入ると安価な洋紙や機械化の波にのまれて廃れた。
再興を志したのがまし子さんの夫、忠雄さん。昭和初期、農業の傍ら紙すきを始めた。伝統技法を貫く忠雄さんの和紙は柔らかさと丈夫さが両立し、敗戦直後の1945年9月、米戦艦ミズーリ号で署名された日本の降伏文書に使われた。
奈良・東大寺の伝統行事「お水取り」で修行僧がまとう紙衣(かみこ)の材料としても、約40年間使われ続けている。忠雄さんは97年に84歳で亡くなり、まし子さんや近隣農家の女性たちが技と志を継いだ。
工房では原料が底を突く今月限りで紙すきを終える予定。在庫のほとんどは得意先に納められる。
こうした現状を受け、市は新年度、国の地方創生交付金を活用し、後継者の育成事業(726万円)に着手する。研修生として2人を公募し、賃金を支給しながら5年で修業してもらう計画だ。
白石和紙は、原料となるカジノキとトロロアオイの栽培から和紙の仕上げまで、一切の作業を工房で行う。工程の途中では何度も水洗いして不純物を取り除くため、清らかで豊かな地下水が不可欠だ。
まし子さんは「知っていることは教えるし、道具も貸す」と市に協力するつもりだが、こうも言う。
「紙をすくまでの下ごしらえに、どれほどの人手と手間がかかるか。冬の農閑期、百姓の副業だからこそ成り立ってきた。この場所では続けられないし、机上の空論なら、やめた方がいいのでは」。独立独歩でブランドを築いた職人魂をのぞかせた。