破壊した車4600台 オーディションには5万人…石原軍団解散 裕次郎さん設立から58年

昭和の大スター石原裕次郎さんが設立した芸能事務所「石原プロモーション」(石原まき子会長)が16日、俳優のマネジメント業務を終了する。1963年1月16日に設立され、裕次郎さんをはじめ、渡哲也さんや舘ひろし(70)ら俳優が映画やドラマで大活躍。団結力が強く、鉄の結束を誇った石原軍団が、設立からちょうど58年を迎えた日に惜しまれつつ解散する。

 石原プロは、裕次郎さんが28歳の誕生日を迎えた62年12月28日に東京都内のホテルで会見を開き、設立を発表。会見には60年に裕次郎さんと結婚したまき子さんも同席。翌年1月16日に資本金3000万円、社員9人で正式にスタート。裕次郎さんは初代社長に就任した。

 映画製作会社として、裕次郎さんが三船敏郎さんと共演した「黒部の太陽」(68年)や「栄光への5000キロ」(69年)などの名作を生み出した。ドラマでは「大都会」(76~79年)、渡さん扮(ふん)するサングラスがトレードマークの主人公・大門圭介部長刑事の活躍を描いた「西部警察」(79~84年)などを制作。裕次郎さんが87年7月17日に52歳で死去すると、渡さんが2代目社長を務めた。

 石原プロは、桁違いのスケールでたびたび世間の度肝を抜いた。「西部警察」ではカーチェイスや車、建物などの爆破シーンが人気に。壊した車は4600台以上ともいわれた。2000年に行った新人発掘オーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」には約5万2000人の応募があり、賞金総額は1億円だった。09年7月に行われた裕次郎さん二十三回忌イベントでは東京・国立競技場に“寺”を建てファンを呼び込んだ。また、阪神大震災(95年)や東日本大震災(11年)では、メンバーが被災地に駆けつけ渡さんや舘らが炊き出しを行い、被災者らにふるまった。

 数々の記録と記憶に残る足跡を残した石原プロだったが、看板俳優の高齢化や若手の育成が順調にいかず次第に勢いを失っていった。近年はたびたび解散説が流れ、裕次郎さんの命日にあたる昨年7月17日に、21年1月16日をもって社名を廃止し俳優のマネジメント業務から撤退すると発表した。

 その後、昨年8月10日に渡さんが肺炎のため死去。「21世紀の石原裕次郎を探せ!」でグランプリを受賞した徳重聡(42)や、16年の「石原プロ次世代スター発掘オーディション」グランプリの神田穣(25)らは既に他の事務所に移籍、もしくは移籍が決まっている。舘や神田正輝(70)は今後、独立するとみられる。

 16日は役員が東京都調布市の事務所にある石原プロの商号の入った看板を持って渡さんの墓所を回った上で、裕次郎さんの仏前でまき子会長に返還し、58年の歴史の幕を静かに下ろす。

◆石原プロモーション 映画会社・日活に所属していた石原裕次郎さんが自身の個人事務所として1963年1月に設立。当初は女優の浅丘ルリ子ら日活出身の俳優が所属。現在は一般的に「石原軍団」の愛称で親しまれている。63年から73年にかけ、大手映画会社に出来ない作品を作るという理想のもとに「太平洋ひとりぼっち」「黒部の太陽」「栄光への5000キロ」など、裕次郎さん主演映画を中心に多数の映画を製作。その後、テレビドラマ「大都会」「西部警察」シリーズを制作して人気を集めた。

 撮影用の車やバイクなどの車両のほか、餅つき機や3000人分の炊飯ができる炊事器などを所有しており、関連イベントでの炊き出しが恒例。阪神大震災、東日本大震災発生後、被災地で炊き出しを行い、被災者に元気を与えた。

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