賃上げが話題になる中、採用のために賃上げに踏み切る中小企業も増えています。賃上げはその「率(%)」が話題になることから、多くの中小企業が賃上げ率を上げることを重視していますが、実は社員が重視するのは「支給総額」や「同業他社とのバランス」であることに気づいていない経営者が多いのが実情です。徹底した情報収集によって給与アップを図り、採用者を増やした中小企業A社の実例を基に、本当にやるべき対策について解説します。(日本人事経営研究室株式会社代表取締役 山元浩二)
頑張って平均を上回る賃上げをしたが社員の冷めた反応にショック
「来年は平均10%の月例賃金アップを実施します」
朝礼で、ある中小企業の吉田社長が社員を前に発表したのは、昨年冬、「令和5年の春闘 5%程度の賃上げを要求」というニュースが流れている時期のことでした。「その倍近い賃上げだ。社員たちも驚いただろう」と誇らしい気持ちでいっぱいでした。
吉田社長の会社は従業員数45人。業種は製造業で、昨年も決して大幅な増益だったわけではありません。しかし、思い切った決断をしたのは、ここ数年、30歳前後の若手社員の離職が続いていたからです。例年の賃上げ率は1~2%程度だったことを考えれば、かなり勇気のいる決断でした。
朝礼を行った日の午後、吉田社長は採用担当の社員に「社員にも月給が10%上げると伝えたよ。今年はこれで退職者も減るだろうし、採用もしやすくなるだろう」とうれしそうに話しました。
しかし、それから数カ月後、採用担当の社員からの報告を聞いて、社長は言葉が出ませんでした。営業部で最も期待していた社員が退職したいと言ってきたというのです。新卒で入社した34歳の男性で、「昨年、子どもが生まれたこともあり、転職を考えるようになった」と話しているということでした。
「何が不満だったのだろう」。社長はどんなに考えても分からずじまいでした。
実は賃上げ「率」にこだわっているのは経営者だけ
ここ数年、賃上げが話題に上ることが増え、中小企業でも実施するところが増えています。私は20年以上にわたって中小企業のコンサルティングを行っていますが、実は吉田社長のような思い込みをしている中小企業の経営者は少なくありません。それはメディアで発信されている賃上げ率を上回っていれば社員が納得する、昨年よりも賃上げ率が上がればいいという思い込みです。
しかし、社員が気にするのは「率」ではなく、「総支給額」です。実は新卒者の初年度の賃金というのは、大手企業と中小企業でそれほど大きな差はありません。採用する側も見劣りしないような額に設定することが多いのも理由です。
しかし、30代になってくると差が開いてきます。「令和4年賃金構造基本統計調査」の「企業規模別にみた賃金」によると、常用労働者1000人以上の大企業と10人~99人の小企業で平均賃金を比較した場合、25~29歳では月額2万8500円の差です。しかし30~34歳になると4万5800円、40~44歳では7万4500円に広がっていきます。さらに年齢区分の中で最も平均賃金の高い50~54歳を見ると、10万7400円もの差となるのです。
若手社員も大学時代の同級生との会話やメディアの情報から、こうした差があることを実感し始めます。生活をする中で豊かさの差を実感する場面も増えてくるでしょう。そして「するなら早いうちに」と転職を考えるようになるわけです。
一方で中小企業では常に自社の賃金をベースにしてしまい、「昨年より上げるか、下げるか」という発想で考えている経営者が多いのも事実です。社長一人でいろいろなことを決めているため、自社の賃金を客観的に分析したり、他と比較したりするという気持ちの余裕がないことも理由でしょう。大手企業どころか同じ規模の同業他社の平均額も知らない経営者は意外に多いです。
(参考)
令和4年賃金構造基本統計調査の概況
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/z2022/dl/13.pdf業界、エリア平均を調べ尽くして採用者を増やしたA社の事例
では、どうすればいいのでしょうか。ここでは吉田社長と同じ規模の会社ながら、賃金アップを図り、採用者を増やしたA社の事例を紹介します。
食品卸を専門とするA社も若手が離れていくことに頭を悩ませていました。私はこうした悩みを抱える中小企業に対して、まず同じ業界の大手企業との賃金比較グラフや業界平均、エリア平均などを示すことから始めます。それによってA社の社長も「とんでもない格差」に初めて気づき、危機感から改革に乗り出しました。
そこで導入したのが「賃金テーブル」。別名「給与テーブル」ともいいます。これは賃金・給与を設定するための基準となる表で、新人から管理職クラスまでのステージ別にグレード(等級)ごとの金額を設定したものです。
まず、ステージをスタッフ、リーダー、マネジメントの3つに分け、それぞれのグレードの段階数と求める役割や仕事内容を設定。その上で各グレードに求められる仕事への対価としてふさわしい金額を決定します。それを「標準額」として、その中で役職手当や基本給(本給、仕事給)の内訳を決めます。
勤続年数が増えるにしたがって賃金が増加する年功序列型の賃金テーブルもあれば、業績を上げればその分だけ賃金が増えていくテーブルもあります。貢献年月を重視するのか実力主義なのか。「賃金テーブル」には人材育成に対する会社の姿勢が反映されます。
しかし、いきなり賃金テーブルを提示しても社員の納得は得られません。「なぜ、あの人より少ないのか」「これまでの成果に見合っている気がしない」など、不満が噴出する恐れがあります。なぜなら、社員が賃金に対する不満を持っているとき、賃金制度を変えるだけでは解消されないからです。
必要なのは自分が成長していくための道筋を示し、その成長が評価されると実感できる「評価制度」の仕組みです。「評価制度」と、会社の経営理念やビジョンを示し、その実現に向けた計画や戦略を明らかにした「経営計画」とを連動することによって、社員全員が同じベクトルを向くことができます。
A社では賃金テーブルを設定後、社員全員と面談を行い、金額の客観的な根拠を伝えるとともに、3年後、5年後、10年後にはどのような活躍をしてほしいか、それによってどれぐらいの給与になっていくかを伝えました。同時に5年後、10年後の目指すべき姿、達成すべき目標を全社員で共有しました。
例えば、ある社員には、会社の成長によって、大手企業では50歳でも難しい部長職に40歳で就くことができること、それによって大手の平均を超える賃金にすることも可能だと伝えました。さらに採用面接の場でも、入社候補者に対して、会社のビジョンや賃金の根拠となる評価制度についての説明を続けるなど、改革を推進していきました。
そして2年後には計画していた通りの賃上げが実現。離職率も下がり、採用もうまくいくようになったのです。
中小企業が大手企業に追いつくためにやるべきこと
A社では賃上げをすぐに実施したわけではありません。大切なのは賃上げや役職、会社の成長といった「将来の姿」を示し、それが実現可能だと社員が信じられることです。
会社の目指す理念を浸透させるために評価制度があり、その運用によって評価ができるリーダーも育っていきます。これまで手つかずだったことを実現していく会社の姿を見て、社員も変化を実感できます。