仙台市の中心部が一夜で焦土と化した1945年7月10日未明の仙台空襲の実態を、米軍の保管資料から読み解くパネル展が青葉区の市戦災復興記念館で開かれる。5日に始まる「戦災復興展」(市主催)の一環。戦後、被害状況の資料や被災者の体験、遺物は多数紹介されているが、市内で初めて米軍側の記録が網羅的に公開される。
展示パネルはA2判の大きさで約40枚。同じ日に仙台を含め4都市、1工場を爆撃した米軍の作戦任務報告書から仙台空襲の部分を抜粋し、翻訳と解説を付ける。
報告書によると、米爆撃機B29が投弾の目標とする爆撃中心点は現在の青葉区中央2丁目、中央通と東三番丁が交差する辺りに定められた。
米軍は、中心点を狙って焼夷(しょうい)弾を投下すれば5割の確率で半径1.2キロメートル以内に着弾し、市主要部を効率的に破壊できると計算。実際に空襲はほぼ作戦通り遂行された。
仙台を攻撃対象とした根拠に、東北の輸送網の中心で線路が走るほか、軍需工場、兵舎もあり、木造家屋が密集することなどを列記。焼夷弾と燃料の量、気象、日本軍の対空砲撃の可能性など、あらゆる角度から合理的な作戦を練り上げたことが分かる。
米軍資料は米国立公文書館が保管、一定期間経過後に公開された。日本の国会図書館も購入し、国内各地で研究者や市民団体が入手、地域の戦災研究に活用している。
パネル展は記念館を指定管理する仙台ひと・まち交流財団の職員馬場俊彦さん(39)らが中心となって企画した。
馬場さんは「資料には空襲の膨大なデータが記録され、ほとんど情報がなかった戦時下の市民とのギャップに驚く。被災者と逆の立場で記録された史実に触れ、仙台空襲を見詰め直す機会にしてほしい」と話す。
15日まで。入場無料。連絡先は記念館022(263)6931。
[仙台空襲]1945年7月10日午前0時3分から2時5分まで、米爆撃機「B29」123機が攻撃。912トン、1万2961発の焼夷弾を投下した。死者1399人、負傷者1683人。主に仙台駅西側の約500ヘクタールが焼け野原となり、被災戸数は約1万1900戸に上った。