繰り返される中国とイタリアの悲劇的な濃厚接触

(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

 イタリアの感染爆発が止まらない。なぜ、中国から遠く離れたイタリアで新型コロナウイルスの感染爆発なのか? 

 今年(2020年)1月末にイタリアで最初に感染が確認されたのは、武漢から旅行に来ていた中国人夫婦だという。だが、もちろんそれだけが感染爆発の理由ではあるまい。もしそれが主たる原因であるなら、日本は今頃イタリアの比ではないはずだ。マスクやトイレットペーパ買い占め騒ぎどころでは済まないパニック状態だろう。

 日本では、新型コロナウイルスの検査体制が整っていなかったため、医療崩壊することなく現在に至っている。重症者を中心に医療体制を組むという優先順位が維持されているからだ。まったくもって、何が幸いするかわからないものだ。

 ところが、検査態勢が整っていたために、かえって医療機関に患者が殺到し、医療崩壊を引き起こしているのが韓国とイタリアだ。現在では、一時期は感染者数では上位にあった日本をはるかに抜いて、イタリアが中国についで感染者がダントツに多い状態となっている。

 イタリアでは、感染爆発を防止するために大都市だけでなく、非常事態宣言が出され、イタリア全土が「封鎖」(ロックダウン)されている。国外からの出入りは禁止、国内でも移動の自由が制限され、薬局や食料品店以外は営業禁止となっている。いったいどこの誰が、こんな事態になるなど予想できただろうか。

 最初に都市封鎖されたのは発生源の中国の武漢を初めとする主要都市だが、民主主義国家で封鎖されたのは、イタリアがはじめてのケースとなった。以後、スペイン、フランス、ドイツと欧州大陸各国に続いている。

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21世紀の中国とイタリアの密接な関係

 イタリアで感染爆発が起こっている理由については、さまざまな説明がされている。ごく簡単に要約すると、こんな感じだろう。

●財政悪化による予算削減で、そもそも医療スタッフが不足していた。今回、イタリア全土で封鎖が実行されたのは、経済的に豊かなイタリア北部に対して、南部の医療システムが貧弱だという状況があるようだ。医療崩壊が起こったのは北部である。

●イタリアは2019年3月、G7加盟国では初めて「一帯一路」に参画する覚書を締結、これが民間レベルでも人の往来を加速化し、経済的な相互依存関係も促進していた。

●中国とイタリア両国は、2020年を文化・観光交流を促進する1年と位置づけ、1月にはローマで記念式典も開いていた。

●2019年にイタリアを訪れた中国人観光客は600万人を超えたという試算もある。

●しかも、イタリアに在住する中国人は、なんと40万人もいる。イタリアを代表するファッションブランドも、縫製関係に関しては中国人移民の労働に依存しているのが現状だ。

 遠く離れた中国とイタリアだが、中国共産党はイタリアを欧州における「一帯一路」の始発点と位置づけている。経済が弱体化しているイタリアは、中国からの投資と消費を歓迎している。両国関係が密接化するなかで、新型コロナウイルスのパンデミックが発生したことになるわけだ。

 発生源となった中国は、すでに感染のピークは過ぎたとして、イタリアをはじめとした欧州各国や、イランなど感染が拡大する国々に、新型コロナウイルス治療にあたる医療スタッフの派遣を開始している(ただし、中国ではピークが過ぎたものの終息したわけでないし、逆輸入による再爆発の可能性もある)。

 善意を装い相手の弱みにつけ込むわざは、したたかというべきか、あざといというべきか、中国共産党らしい戦略的な振る舞いといえよう。

 この動きをつうじて、イタリアはさらに中国に取り込まれていくのだろうか? ローマ教皇フランシスコの中国共産党へのアプローチも含めて、大いに気になることである(コラム参照「ローマ教皇は宗教弾圧国家・中国とどう向き合うのか」)。

中国とイタリアの密接な関係は14世紀にもあった

 新型コロナウイルスの感染源の中国、欧州で最初に感染者が急増したイタリア、そしてパンデミック。この三題噺ともいうべき組み合わせをどこかで見たような記憶が想起されないだろうか?

 大学学部時代に歴史学を専攻し、「中世フランスにおけるユダヤ人の経済生活」というタイトルで卒論を書いた私が想起するのは、14世紀にパンデミックとなった「黒死病」(ペスト菌による感染病)のことだ。

 黒死病の潜伏期間は2日から7日で、全身の倦怠感に始まって寒気がし、39~40℃の高熱が出る。9割方は腺ペストで、リンパ腺が冒されて、鼠径部にこぶし大のぐりぐりができ、治療しなければそのまま死に至る。先進国では根絶されたとされるが、1994年にインドのグジャラート地方で感染拡大があった。

 14世紀の黒死病は、元々は中国で発生したペスト菌が、ユーラシア大陸をヒトの移動とともに西に移動して、欧州と地中海世界で感染爆発したとされている。媒介したのがネズミなど齧歯類(げっしるい)とされてきたが、ノミやシラミだという説もあるし、またペスト菌による感染病ではなくウイルス出血熱だという説もあるが、いずれにせよ人間の移動とともに感染が拡大したことに違いはない。

 1348年に欧州に上陸して欧州全土で感染爆発、数度にわたる感染を繰り返し、17世紀になってようやく終息していった。推計で5000万人の死者が出たとされるが、そのうち半分が欧州での死者である。なかでも島国であったイングランドでは、人口の3分の1が死ぬという事態を引き起こしている。

 この黒死病が、欧州で最初に上陸したのがイタリアなのだ。

 黒死病は、イタリア南部の港湾都市メッシーナから上陸したのである。黒海の交易都市カッファ(現在のフェオドシヤ)からの貿易船が、感染を媒介するヒトとネズミとともにイタリアに上陸したことで、欧州全土に拡がっていったのである。

 中国で発生し、イタリアから感染爆発が始まり欧州全土に拡大したというのは、今回の新型コロナウイルスときわめて酷似しているではないか!

 もちろん、14世紀当時には「イタリア」という統一国家は存在せず、ヴェネツィアやジェノヴァに代表される都市国家が、経済をリードする存在であったこと、こういった都市国家と中国(当時は元朝)との経済関係が密接であったことも、現在とよく似ているのだ。

パックス・モンゴリカ時代のグローバリゼーション

 14世紀のパンデミック発生については、この時代もまたある意味、グローバリゼーションのまっただ中にあったことを知っておく必要がある。

 中国とイタリアがもっとも密接な関係にあったのが13世紀から14世紀にかけての「パックス・モンゴリカ」(=モンゴルの平和)の時代であった。ユーラシア全土に拡大したモンゴル帝国の存在が、陸路による東西交通を活発化し、ある種のグローバリゼーションともいうべき現象が実現したのである。

 その象徴ともいうべき存在が北京の盧溝橋だ。日本では日中戦争の発端となった「盧溝橋事件」(1937年)で有名な橋である。別名「マルコ・ポーロ橋」(イタリア語でPonte di Marco Polo)ともいう。マルコ・ポーロの『東方見聞録』に登場するからだ。

盧溝橋(=マルコポーロ橋)に並ぶ獅子頭は『東方見聞録』にも記述がある(出所:)

 都市国家ヴェネツィアの商人であったマルコ・ポーロ(1254~1324)は、遠路はるばる陸路によって元朝のフビライ・ハーンの宮廷を訪れた。マルコ・ポーロは1274年に皇帝フビライに初めて謁見し、以後17年間、1291年まで元朝に滞在していた。その間、外交使節として各地に赴いているが、基本的に元朝にいたことになる。二度にわたる元寇(=蒙古襲来)が行われたのが1274年の「文永の役」と1281年の「弘安の役」であるから、日本にとってはまさにクリティカルな時期であった。

『東方見聞録』(東洋文庫ミュージアムにて筆者撮影)

 13世紀のモンゴルによる世界征服事業によって、この時代にはじめて東洋と西洋が1つの世界としてつながった。モンゴルは、イスラーム商人からの強い要請を受けて、ユーラシア大陸のステップ地帯を東西に結ぶ交通網の整備と、世界初の紙幣の導入という経済インフラの整備を行った。現在、中国共産党が推進している「一帯一路」は、13世紀のモンゴルの政策の21世紀版であるともいえる。デジタル人民元は、13世紀の紙幣の21世紀版ということになろう。

 13世紀当時は、交通網の発達で片道が陸路で7~8カ月に短縮、しかも24時間通行可能なほど道中の安全が確保されていたことで、ヴェネツィアなどの都市国家からは商人のほか、宣教目的でフランチェスコ会の修道士たちも元の首都に赴いている。その成果として、首都・北京にはカトリック教会が建設されていた。十字軍におけるイスラーム勢力との対抗上、教皇庁はモンゴルに呼びかけて手を結び、モンゴル人もまたバチカンまで来ているのだ。

 中国に残っている痕跡の象徴が盧溝橋(=マルコ・ポーロ橋)だとすれば、イタリアに残っている中国の痕跡は、ジオットに代表される初期ルネサンス絵画の名作であろう。13世紀に活躍したジオットの絵画に登場する人物像に共通するのが、東洋人のような切れ長で細い目であり、衣の裾に描かれたパスパ文字と見られる紋様である。パスパ文字はモンゴル帝国の崩壊後は使われていない

ジオットが描く『使徒行伝』に登場する聖ステファノ像。細くて切れ長の目は中国への憧憬の反映か?(出所:Wikipediaイタリア語版)

 この件に関しては、美術史家の田中英道教授が、『光は東方より-西洋美術に与えた中国・日本の影響』(河出書房新社、1986)の中で詳しく論じている。田中教授は、13世紀から14世紀に中国から輸入していた絹織物などのシルク製品や、絵画や焼き物に描かれたモチーフが当時のイタリアで模倣されたのは、東方、ことに中国への憧憬(あこがれ)があったからだと推論している。

 21世紀の現在は空港から空港への移動、それ以前は港から港への移動が主であったが、いずれにせよ交通路さえつながっていれば、人間は移動するものなのである。人間にはホモ・モビリス(=移動するヒト)という異名があるとおりなのだ。

黒死病のパンデミックでグローバリゼーションが終焉

 13~14世紀に活発となった中国とイタリアの関係だが、グローバリゼーションというべき現象を背景にした、この密接な関係がかえって裏目に出る事態が発生した。それが、先にも触れた黒死病である。

 黒死病は、中国で発生し、黒海のクリミア半島にあった中継貿易港カッファ(現在のフェオドシヤ)をつうじて、イタリア南部のメッシーナから上陸したとされている。

 イタリアの都市国家ヴェネツィアとジェノヴァが、カッファの主導権をめぐって領有権争いをしていたが、当時はジェノヴァの支配下にあった。1347年にモンゴル軍がカッファ包囲作戦を実行した際、モンゴル軍の陣中に悪疫が拡がったため撤退したが、そのときにはすでに市中に感染が拡大していたという。一説には、疫病で死んだモンゴル軍兵士の死体を城壁内に投げ込んだことが世界最初の生物兵器だとされるが、事実であるかどうかは定かではない。

14世紀ジェノヴァ共和国の海外展開(出所:Wikipedia英語版)

 いずれにせよ、黒死病はイタリアから上陸して、欧州西部と北部に拡大、さらに地中海全域に感染拡大した。あまり知られていないが、シリア、パレスチナなどのほか、北アフリカのイスラーム圏でも同時に感染が爆発している。チュニスでは、『歴史序説』で有名な大学者イブン・ハルドゥーンの両親も黒死病に倒れている。モロッコでは、『大旅行記』で有名なイブン・バットゥータが中国の泉州からの大旅行から戻ったとき、その数カ月前に母親が黒死病で亡くなっていたことを知ったという。感染症は、人種も宗教も男女も関係なく、それこそ平等に襲いかかるのである。

 話を欧州に戻せば、もっとも甚大な被害が出たのは欧州北部の島国イングランドで、全人口の3分の1が死亡したといわれる。この結果、労働力不足の事態に陥り、労働条件向上を求めて一揆が頻発、黒死病だけが原因ではないが、イングランドを先頭に西欧中世世界の崩壊に拍車をかけたといわれている。一方、黒死病の上陸地となったイタリアでは人口の8割以上が死亡し、ほぼ全滅状態となったコミュニティも多数あった。黒死病の感染爆発以降、欧州の先進地域であったイタリアの全盛期は終わったのである。

欧州における黒死病の感染拡大(出所:)

 最終的に西欧で中世が終わるのは16世紀になってのことだが、グローバリゼーションともいうべき「パックス・モンゴリカ」は、黒死病の蔓延と世界全体の寒冷化によってモンゴル帝国が崩壊することで14世紀に終わった。イタリアで中国が話題になることもなくなり、同時に中国でイタリア人が来訪することもなくなった。

アブー=ルゴドの著作に基づく「13世紀世界システム」 (出所:Wikipedia)

 それ以降も、地中海は地中海、東アジアは東アジアで、地域経済圏は活動を続けるが、地域経済圏を越えて経済圏どうしを結びつけるグローバリゼーションの動きは、15世紀末のポルトガルまで出てこない。イスラーム勢力を駆逐してイベリア半島の主導権を握ったポルトガルとスペインが、いわゆる「大航海時代」というグローバリゼーションを開始するのである。

 そして、その後に続いたのがオランダとイングランド(英国)であり、産業革命後は英国が覇権を握り、第2次世界大戦は米国がそれにとって変わった。新型コロナウイルスのパンデミックは、米国による覇権を固定化させることになるのかどうか。それともこの事態を逆利用して中国がのし上がるのか。大いに注目すべきであろう。

14世紀の黒死病が生み出した文学作品

 イタリアで感染爆発が始まり学校閉鎖で自宅待機を余儀なくされ始めた3月の初め、ミラノの高校の校長先生が生徒たちにあてたメールの内容が感動的だとネットで話題になった。

 校長先生が話題として取り上げているのは、イタリアの国民文学である『いいなづけ』という大河小説のことだ。19世紀ミラノ出身のマンゾーニが書いたこの作品は、17世紀にイタリアのミラノを襲ったペストを時代背景にした恋愛物語である。このニュースのおかげだろうか、日本でもふたたび『いいなづけ』が静かなブームになりそうだ。

『いいなづけ』が17世紀のミラノを舞台にした物語なら、14世紀のフィレンツェで生まれたのがボッカチオの『デカメロン』だ。前者が純愛ものなら、後者は身もふたもない大人のエロチック小話集である。ああ、あれねと、タイトルくらいは知っている人も少なくないだろう。

 舞台設定はこうだ。黒死病の感染から逃れるため、フィレンツェ郊外に引きこもった男3人、女7人の10人が、退屈しのぎのために交替で10話ずつ語る。「10」を意味するギリシア語の「デカ」から来ており、かつて日本では『十日物語』とされていたこともあった。

 感染症で多数の死者が出たが、当然のことながら、すべてが死に絶えたわけではない。生き残った者は、大いに楽しむべし。かえって生きる力が湧いてくるというもの。それが『デカメロン』の教えだろう。

 これ以降の欧州では、人口が回復していくにつれて、東方からキリスト教世界に流入し拡大していた「無常観」が逆転し、どうせいつ死ぬかわからないのだから、生きているあいだは大いに楽しもうという人生を謳歌する方向も生まれてくる。メメント・モリ(死を想え)からカルペ・ディエム(この日をつかめ)が派生したのである。

 この爆発的エネルギーが、近世以降の西欧による世界支配につながっていったのだから、パンデミックの影響というものは、短期だけでなく中長期的にも見ていかなくてはならないことを示しているといっていいだろう。

「検疫」も14世紀のパンデミックから生まれた

 忘れてはならないのは、14世紀に感染爆発した黒死病対策の一環として「検疫」が始まったことだ。最初はラグーサ(現在のクロアチアのドゥブロブニク)で1465年に始まり、その後ヴェネツィアで1485年に制度化され、地中海世界全域に普及した。

 米国を代表する歴史家マクニールの『疾病と世界史』(中公文庫、2007)によれば、もともと「隔離検疫」の発想が生まれたのは1347年のことで、皮膚病対策として「40日間」の隔離検疫が実行されたことが始まりだという。黒死病の欧州上陸直前のことだ。

 だから現在でも検疫のことを英語で“quarantine”というのである。40日間を意味するイタリア語からきた外来語だ。現在では「14日間」に短縮されているが、基本的な発想は同じである。おそらく当時も40日間の隔離検疫の期間中に、感染症のピークは船内で去っていたのであろう。その意味では、ダイヤモンド・プリンセス号の隔離検疫14日間は短すぎたといえるかもしれない。

 さて、今回の新型コロナウイルスは、遺産としてなにを後世に残すことになるのであろうか? できれば今回のパンデミックを生き延びて、自分の目で確かめたいものだ。

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