平昌五輪の羽生は鬼気迫っていた。3カ月前に負った右足の大けがに耐えての渾身(こんしん)の演技。「なにより勝ちたい。勝たないと意味がなかった」。勝利への執念を見た。
ソチ五輪を制し、世界歴代最高得点を記録しても、満足しなかった。世界のライバルを強く意識し、新たな4回転ジャンプに挑み続けた。理想の追求ではなく、勝つための演技。だから、現実を直視できる。けがを抱えた平昌は大技を捨て、確実な構成で勝った。
芸術とスポーツの境界があいまいなフィギュアで、羽生ほど勝利への渇望を隠さない選手を知らない。リンクは表現の場である以上に戦いの場だった。
「平昌は幼い頃からの目標の到達点。自分の中でやり切った」。平昌後、前人未到のクワッドアクセルの習得だけが現役を続ける意味だと語った。競技への向き合い方が明らかに変わった。
翌2019年の世界選手権。後に北京五輪で金メダルを獲得するネーサン・チェン(米国)に大差で敗れた。フリー直後の言葉が「負けは死も同然」。選手である限り、勝負師のさがは抜け切らない。一方で、その後は以前ほど結果への情熱をあらわにしなかった。
夢への挑戦か、勝利への欲求か。その時々で揺れているように見えた。平昌を最後に、チェンに勝つこともなかった。
「今までで一番、自分の限界や知らない世界を感じたい」。18~19年シーズン後のインタビューで見せた無垢(むく)な表情が思い出される。クワッドアクセルは道半ば。戦いの舞台を降りて初めて、純粋に夢を追えるのかもしれない。
東北高時代に東日本大震災に遭った。仙台のリンクが使えなくなり、国内のアイスショーを転々としながら練習に励んだ。世界で活躍するようになってからも被災地を気遣う言葉を数多く残した。
17年夏。練習拠点のカナダ・トロントであった合同取材で、「震災ほど苦しいことはない」と言った羽生に対し、「(競技前の練習で頭をぶつけた)衝突事故とかよりもつらいのか」と聞いた記者がいた。羽生は間髪入れず、「間違いなく」と少し語気を強めた。
震災翌年、仙台を離れた羽生を快く思わない地元の人もいた。でもこのとき、羽生は古里を決して忘れていないと確信した。東北への思いも胸に戦った、希代の勝負師だと思う。