自動車づくりの“日本回帰”を支えているのは?

一時期、日本のモノ作り産業の空洞化が危機感を持って叫ばれた。製造業の多くの分野で生産拠点の海外移転が相次いだ結果、このままでは国内雇用の維持が難しくなると言われていたのである。

しかし、この数年、製造業は国内へと回帰しつつある。最も影響を与えたのは中国の動向だろう。中国の法律では、日本企業が中国へ進出するには現地企業と合弁で立ち上げるしか選択肢がなく、かつ、持ち株比率が過半にならないように制限を受ける。

そのため中国に進出しても日本からのガバナンスがうまく働かない。日本企業は自社の都合で進出したにもかかわらず、中国国内企業としての都合が優先され、 意思決定の系統が2つに分かれてしまった。このせいで経営が予想以上に窮屈になった。しかも問題の根元が経営の内部問題ではなく、限りなく中国国内ルール の問題なので、日本企業にとっては成す術がなかった。

さらに言えば、発展著しい経済状況を背景に労働力が完全な売り手市場であることか ら、中国人労働者のロイヤリティが低い。どこかに条件がいい会社があればすぐに移籍してしまう。雇う側から見れば、即戦力として心もとない上に、教育コス トをかけて水準を上げようにも、人材が育つ前にその多くが流出してしまう困った状況であった。

日本の製造業空洞化が最も深刻に心配された ころ、中国の労働単価は日本の10分の1に過ぎなかった。当時はそんな諸問題を割り引いても中国での生産コストは魅力だった。潤沢な利益がさまざまな問題 を解決したのである。逆に雇用を奪われる日本の立場で見ると、中国の経済発展によって人件費が日本の水準まで上がり、雇用コストで競合できるようになるの は絶望的に先のことに思えたのである。

●日本を4連続で襲った経済危機

しかし、意外なほど早期に労働単価問題は軽減する。 長引く不景気と、2008年から2011年にかけたサブプライムローン問題、リーマン・ショック、タイの洪水、東日本大震災という日本経済を波状直撃した 経済ショックにより、日本の労働単価が驚くほど下落した。その理由は端的にモノが売れないこと。需要が経済ショックによって瞬時に縮退したからだ。

こうしたダイナミックな需要の変動は企業の長期計画経営を困難にさせる。何かが引き金となって、ある日突然モノが売れなくなる。そうした事態に対応しようと思えば、需要縮小に耐えられるように体質改善しなくてはならない。

経済ショックによる需要変動に対応した日本企業側は、雇用を非正規にシフトして需要変化に対する調整代を作り出した。もちろん非正規雇用については多くの議論があるが、とりあえずここでは善悪の判断は置いて、事実の経過のみを取り上げたい。

こうして日本の雇用コストが下落するのと相対して、中国の雇用コストはうなぎ登りに上昇し、徐々に「世界の工場」として中国でモノ作りをする意味が失われていく。

2012年に中国で起きた日系企業に対する暴動や焼き討ち騒ぎの結果、進出企業は製造拠点の移転を考える。選択肢は2つある。1つは中国よりあらゆるコス トが安いASEANとインドへの転出だ。しかし、日本の企業も中国進出で海外拠点でのモノ作りの問題点を学んだ。労働者の質的問題や電力、原材料などの供 給、そして異なる法律やルールに慣れなければならない不自由さがそこにはある。

さらに一定以上の製造業が進出すれば当然経済発展が起こ り、雇用コストは長期的には必ず上昇する。中国の場合、予想より圧倒的に早くコスト上昇が起こり、立ち上げの苦労からようやく旨味のある経営体制に入った かと思ったら、そのパワーバンドを維持した期間は思いのほか短かったのである。新興国へ転出した場合、それが再び起きないという保証はない。

しかしながら、一方で、製造拠点は単に製造コストの低減だけを意味するわけではない。経済発展の暁にはモノ作り拠点としてのメリットは目減りするだろう が、入れ替わりにマーケットとしての旨味が発生する。人口13億人のインド、2億5000万人のインドネシア、1億人のフィリピンとベトナムなど、今後の 発展に鑑みれば垂涎のマーケットでもある。そうした大消費マーケットに製造拠点を設けることには別の面で大きな意味があるわけだ。

一方、 日本はどうか、日本の場合、今後雇用コストが短期的に跳ね上がる可能性はそれほど高くない。もちろん長い目で見れば、少子化の影響で需給が引き締まること はあるかもしれないが、質とロイヤリティの高い労働者に加え、文化的摩擦も考慮する必要がないなど大きなメリットもある。

●先進国のメリットは何か?

こうした途上国と先進国が戦っていくためには、単純な土地や労働単価のコストでは対抗できない。高付加価値の技術を投入することで、単位時間あたりの生産効率を高め、結果的に土地や人件費のコスト負担を薄めていくしかない。

今の日本はそうした面でどうだろうか? 製造ラインのロボット化が進んだ結果、生産効率が大幅に向上し、理屈の通り労働コストに多少の差があっても単位時間当たりの生産単価ではむしろ有利になる場合も出てきたのである。

しかし、いくら単位時間当たりの生産効率が上がっても、それに見合う販売力がなければ、結局は工場稼働率が落ちて、絵に描いた餅になりかねない。そこは解決できるのだろうか?

1つには「Made in Japan」が持つブランド力のメリットがある。しかしそういうブランド力を担保するのは結局、商品力と性能だ。自動車において特にコアになるのはシャ シーの製造だ。クルマの総合的な性能について、大きな割合を占めるからだ。軽量で高剛性であることが、安全性にも走りにも燃費にも重大な影響を及ぼすほ か、商品性をしっかり打ち出すためにはデザイン性も求められる。誰が乗ってもレベルが違うシャシーが作れたら、目的はかなり達成できるだろう。

それらを叶えるために求められるのが、素材と加工技術だ。日産は現行マーチをタイなど、世界の複数の拠点で生産できるようにするために、鋼板に対する要求 性能を下げた。プレスや溶接の技術も途上国で加工できることを設計条件に組み入れた。その結果、デザイン的な制約が大きくなったのである。

プレスによって複雑な面を作るためには、鋼板の性能が極めて重要だ。性能が足りないとキツい曲面に追従しきれず鋼板が破断しまう。つまり、低い性能の鋼板 を使うということは、プレスで作れる曲面をできる限り単純化しなくてはならない。マーチのぼってりとした緊張感のない面構成は、そうした事情で成立してい る。

高剛性なシャシーを実現するためには鋼板の高い性能が欠かせない。鋼板と一口に言っても、実はその性能はさまざまで、鉄鋼メーカーは 自動車メーカーからの要求に合わせて、求められる性能の鋼板を作って納入している。自動車に使われている鉄板は、そこいらにあるものではなくオーダメイド なのだ。

例えば、JFEスチールの「テーラードブランク」を見てみよう。この鋼材は厚みや素材特性が均一ではない。1台のクルマになった とき、シャシーは強い強度が求められる場所と、さほど強度を必要としない場所がある。テーラードブランクはそうした場所ごとに厚みや素材特性を変えて作ら れた鋼板で、料理で言えば下ごしらえが終わった惣菜のようなもの。このテーラードブランクを使うことで、必要な場所だけ強度を上げ、不必要な場所は板厚を 落として軽量化できる。

もう1つの例は、新日鉄住金のホットスタンプ(熱間プレス)用高張力鋼板だ。シャシーの強度を担う部位には当然な がらより高い強度を持つ鋼板を使いたい。これを高張力鋼板と呼ぶ。高張力鋼板は素材特性として変形しにくい。それは車体剛性を上げるためには非常に有利だ が、変形しにくいということは当然加工性が悪い。

通常はプレスしても型の通りに整形できずにばねのように戻ってしまう。もちろん完全に元 のように戻るわけではないが、思った形に仕上げるのが非常に難しい。止むを得ずプレスの回数を増やして対応するか、もう少し鋼板の強度を落として加工しや すい妥協点を探すのだが、冷間プレスでは、高性能な鋼板を加工することは限界がある。

しかし、現実的には衝突安全や操縦性、軽量化のための切り札とも言えるこの高張力鋼板は、現在各メーカーが導入を競っている。車両1台を構成する鋼板の中での高張力鋼板の比率を上げるために躍起になっているのだ。

ただし、高張力鋼板の導入は同時に上述の理由によって生産性を著しく落とし、コストアップの原因になる。これを解決したのがホットスタンプである。トヨタ が新しいクルマ作り「TNGA」の目玉の1つとして導入したこのホットスタンプは、鋼板を約900℃に熱してプレスする。こうすることにより、素材の応力 を取り除き、形が戻らなくなる。プレスの型の再現度が大幅に向上するのだ。

そのためには鋼板を釜に入れて加熱する必要があった。この釜が大掛かりな上に、部品の形状依存性が高く、生産速度のボトルネックになっていた。これではTNGAに採用できない。TNGAの売りの1つは生産の柔軟性を高める点にあるのだ。

トヨタには元来「一個流し」という言葉がある。これは生産設備を動かすための最低ロットをできる限り減らし、理想的には一個でもラインに流せることを意味 するが、この概念をホットスタンプにも取り入れた。鋼板を釜で加熱するのではなく、電極をつないで電気抵抗で加熱するようにしたのだ。これによってロット をまとめることなく加熱が可能になり、加熱に要する時間も削減できた。背景には新日鉄住金の高い技術がある。つまり経済ショックとみるや、効率を落とすこ となく生産台数を減らす仕組みのためには、高い技術に裏打ちされたサプライヤーが是非とも必要なのだ。そしてそういう体制が確保できるのはどこの国でもな く日本なのである。

●素材だけでなく生産ラインも変わった

もう1つ重要なポイントがある。それは溶接技術だ。溶接の理想は 面の完全密着だ。ついで線、最後に点となる。従来、自動車のシャシーはスポット溶接によって接合されていたのだが、この方法では点接合しかできない上に、 その点と点の間にはある程度の距離を必要とした。資料によって2.5センチというものもあれば、5センチというものもあるが、要するに裏表からクランプし て電流を流し、電気抵抗で金属を溶かすという原理から言って、隣り合う点が近すぎると電流がリークしてしまうという問題は、スポット溶接を使う限り根本的 に解決する方法がない。

そういう意味ではレーザー溶接で線溶接する方が望ましい。しかし、これまでのレーザー溶接では、溶接に要する時間が長く生産効率が悪化してしまう。そのためどうしても強度が必要な場所のみスポット溶接とスポット溶接の間を補完する補助的な役割しか与えられてこなかった。

しかし、トヨタは新たにレザースクリューウェルディングという接合法採用し、スポット溶接の補助ではなくレーザー溶接を主体とする接合方法を採用した。 レーザースクリューウェルディングは、スポット溶接より大きな点を、より密度の高い間隔で打つことができる上、作業速度が極めて高い。この新たな接合技術 によって、シャシー性能を向上させながら、軽量化し、さらに生産速度を上げられるようになった。

もう1つ革新的な接合方法が登場してい る。それは摩擦攪拌(かくはん)接合という方法だ。溶接点にコマのようなパーツを当てて圧力をかけながら高速回転させる。金属は摩擦熱で柔らかくなって、 粘土のように混ぜ合わさる。この方法の最大の魅力は接合に要する温度が低いことだ。鋼板は高温にさらされると素材変化を起こし、強度が落ちたり脆くなった りする。摩擦攪拌接合の場合、そうした現象が起きるほど温度が上がらないため、鋼板の性能が劣化しない。高張力鋼板の性能をより引き出すことができるの だ。しかもアルミと鉄のような異素材の接合も可能である。シャシーを構成する金属の選択自由度が上がれば、当然その分軽量化にも高剛性化にも効いてくる。

そしてレーザースクリューウェルディングも摩擦攪拌接合も、工業用ロボットのプログラミングで高い汎用性が確保できる。スポット溶接におけるクランプのよ うな物理的な制約がないため、ロボットのアームが溶接できる自由度が高い。それはすなわち、1つのラインに多品種のクルマを必要に応じて流すことが可能に なるということだ。この混生ラインは、生産性の向上に大きく寄与する。従来の方法ではプリウスのラインはフル稼働だが、カローラのラインは止まっていると いうようなことが起きがちだった。

しかし、これらの新しい溶接技術によって、生産ラインは単一モデルの専用ラインではなくなるため、空いているラインで売れているクルマを生産すれば、納期が早くなり、同時に工場の稼働率を上げることができる。

国内でないと手に入らない素材や、それを機械化によって効率よく組み立てる新しい溶接技術によって、生産原価に対する人件費比率を減らすことができた結果、多少の人件費の差は飲み込めるようになった。

技術の向上によって、日本をはじめ先進国でのモノ作りは再び注目すべき状況になっているのである。

●筆者プロフィール:池田直渡(いけだなおと)

1965年神奈川県生まれ。1988年企画室ネコ(現ネコ・パブリッシング)入社。取次営業、自動車雑誌(カー・マガジン、オートメンテナンス、オート カー・ジャパン)の編集、イベント事業などを担当。2006年に退社後スパイス コミニケーションズでビジネスニュースサイト「PRONWEB Watch」編集長に就任。2008年に退社。

現在は編集プロダクション、グラニテを設立し、自動車評論家沢村慎太朗と森慶太による自動車メールマガジン「モータージャーナル」を運営中。

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