私たちが一度覚えたことを忘れないでずっと保っている記憶の形を「長期記憶」と呼びます。そして、長期記憶は、その内容によって大きく2種類、言葉で言い表すことのできる「陳述記憶」と言葉で言い表すことのできない「非陳述記憶」に分けることができます。
たとえば「昨日家族で温泉旅行に出かけて楽しかった」(エピソード記憶)とか、「徳川家康が江戸幕府を開いたのは1603年だ」(意味記憶)といった事柄は、ちゃんと正確に言葉で伝えられますから「陳述記憶」です。「陳述記憶」は、私たちが日常生活の中で意識することのできる記憶の形なので、「顕在記憶」と言い換えられることもあります。
一方、「非陳述記憶」に含まれるのは、無意識にできる動作の記憶や、反射的に思い出してしまう記憶といった、内容を意識して思い出すことがない記憶の形なので、「潜在記憶」とも呼ばれます。今回は「非陳述記憶」または「潜在記憶」の一種である、「手続き記憶」について詳しく解説します。
手続き記憶とは……自転車の乗り方や楽器の演奏など
手続き記憶に含まれる内容は、運動性技能、知覚性技能、認知性技能 (課題解決)の3種類があります。
運動性技能に関する手続き記憶の例としては、箸を使って食事ができる、櫛で髪をとくことができる、自転車に乗れるようになる、楽器の演奏が上手にできるようになるなどです。私たちは生まれたばかりの時は何もできませんが、時間をかけて練習を繰り返し、試行錯誤と改良を重ねた結果、体を適切に動かす技術を獲得していくのです。
よく「からだで覚える」と言いますが、実際はからだが覚えるのではなく、脳が覚えるのです。練習を繰り返すうちに、手足をどのように動かせばよいのかの情報が脳の中に刻み込まれていくのです。
知覚性技能に関する手続き記憶のわかりやすい例は、鏡に写った時計や文字が読めることです。生まれて初めて鏡を見た赤ちゃんはきっと驚くことでしょう(みなさんもそうだったはずです。犬や猫に鏡を見せると最初はビックリするのと同じです)。
一体これは何なのか。鏡の裏には何もないし、自分が動くと同じように鏡の中の人も動く。そのうち、そこに映っているのが自分自身であり、しかも左右反転して見えているということを理解します。すると、そのことを前提に脳が解釈するようになり、逆さに映った時計盤でも時刻が読み取れ、文字も読めるようになります。
これも、経験を繰り返すうちに身についた技能であり、手続き記憶の一つの形です。
認知性技能に関する手続き記憶の例は、パズルやゲームです。複雑なパズルなどは最初とても難しくて解けなかったり、すごく時間がかかりますが、何度もやっているうちに慣れてきます。テレビゲームなどもそうです。
いわゆる「コツをつかむと課題をクリアするのが楽になる」という感覚が、認知性技能が見につく過程を表しており、これも手続き記憶の一種です。
手続き記憶には2つの大きな特徴があります。以下で説明しましょう。
特徴1. 無意識のうちに再現できる
自分が体験した出来事に関する「エピソード記憶」の場合は、いつどこで誰と何をしたなどの付帯情報やそのときにわいた感情などもあわせて記憶されますが、手続き記憶が形成される過程は残りません。
「ピアノが弾けるようになった」という場合に、たくさん練習をしたことを覚えているのはあくまで「エピソード記憶」であり、どうやって弾けるようになったかという手続きの記憶は覚えていないはずです。「たくさん練習したことは覚えているけれど、どうしてできるようになったかはわからない」…これが手続き記憶の特徴です。
また、結果として身についた後は、手続き記憶の技能を無意識のうちに再現できるようになります。いったん自転車に乗れるようになると、いちいち「右足をこう動かして次に左足をこう動かして…」なんて考えなくても、自然と体が動きますよね。だからこそ、手続き記憶は「潜在記憶」とも言われるわけです。
特徴2. 忘れることがない
思い出や知識のような記憶は「思い出せない」「忘れてしまった」と感じることが多いですが、手続き記憶は、決して思い出せないことや忘れることがありません。
筆者は趣味の一つはスノーボードで、独身時代は毎週のようにゲレンデで雪と戯れていました。しかし結婚して仕事や子育てに時間が割かれるようになり、すっかりゲレンデから遠のいてしまったことがあり、10年ほどのブランクを経てゲレンデに立った時、「あれ、どうやって滑るんだっけ」と戸惑いました。
しかし、とりあえずボードを滑らせてみたら、体が自然と動いて難なく滑れたので自分でも驚きました。どうやって体を動かしているのかは説明できなくても、ちゃんと「からだが覚えていた」のでしょう。
みなさんも、一度自転車に乗れるようになったら、一生乗り方を忘れないでしょう。一度弾けるようになった楽器も、多少の腕の衰えがあったとしても、まったく弾き方がわからなくなったなんてことはないでしょう。
認知症になっても消えず、新たに獲得することもできる「手続き記憶」
不幸にして病気などで手足が不自由になり、物事をうまく行えないという方でも、脳の中に手続き記憶は残っています。
手続き記憶に関係している脳の場所がどこかは、全容が解明されていませんが、これまでの研究から、大脳基底核や小脳が中心的役割を果たすと考えられています。その一つの証拠としては、大脳基底核が損なわれてしまうパーキンソン病や、小脳が損なわれる小脳変性症の患者さんでは、エピソード記憶の障害はみられずに、手続き記憶が障害されます。
一方、アルツハイマー型認知症の患者さんは、主に海馬や内側側頭葉が損なわれるためにエピソード記憶の障害が顕著に現れますが、大脳基底核や小脳の機能は保たれているため、手続き記憶は問題ないことがほとんどです。
たとえば、鏡に映された図形を見ながらなぞるという課題は、難しくて認知症の患者さんにはできないように思うかもしれませんが、記憶障害や、時刻や自分がどこにいるかがわからなくなってしまう見当識障害が重い患者さんでも、練習すれば難なく上手にできるようになります。
このことは、手続き記憶の獲得に、海馬や内側側頭葉は必要ないことを物語っています。
認知症になっても、記憶のすべてが損なわれるわけではありません。さっき食事をとったことさえ覚えていないというエピソード記憶の障害の方でも、練習をして新しい技能を身につけると、新たな手続き記憶を得ることもできます。さまざまな活動を通して、残された脳の機能をうまく引き出すことで生き生きとした暮らしは可能なのです。
阿部 和穂プロフィール
薬学博士・大学薬学部教授。東京大学薬学部卒業後、同大学院薬学系研究科修士課程修了。東京大学薬学部助手、米国ソーク研究所博士研究員等を経て、現在は武蔵野大学薬学部教授として教鞭をとる。専門である脳科学・医薬分野に関し、新聞・雑誌への寄稿、生涯学習講座や市民大学での講演などを通じ、幅広く情報発信を行っている。
(文:阿部 和穂(脳科学者・医薬研究者))