腕時計に関する記事をウェブサイトや雑誌で展開する米国の有力腕時計メディア「ホディンキー」が、初の海外版となる日本語のサイトをつくりました。年内に雑誌も発行する予定で、日本の愛好家の注目を集めています。高級腕時計の輸入大国の香港や中国ではなく、人口減や少子高齢化が進んで個人消費も盛り上がらない日本を進出先に選んだのはなぜか。ホディンキー創業者のベンジャミン・クライマーさん(37)らへのインタビューを通じて、日本市場の特徴を探りました。(朝日新聞記者・榊原謙)
日本の腕時計ファンにも知名度
ホディンキーは、2008年にクライマーさんが祖父からもらった腕時計について書いたブログが出発点です。多くの腕時計メディアが腕時計の機構や機能の分析や解説に注力するなか、ホディンキーは腕時計の開発ストーリーや愛好家の思いなど物語性のある記事を多く載せることが特徴です。
13年に米タイム誌の「ベスト・ウェブサイト50」に選ばれ、ページビューは月864万にのぼります。
その日本版が公開されたのは昨年11月。掲載する記事の8割は米国で書かれた記事を翻訳したものですが、新しく発足した日本版編集部のオリジナル記事も増えています。
ブルガリが建築家の安藤忠雄さんと共作した高級腕時計「オクト フィニッシモ」を紹介する記事には、こんな記述があります。
「この時計の文字盤を初めて見たときに思い浮かんだのは、日本庭園の枯山水」
日本版の編集部では、日本の感性で腕時計の魅力を伝える試みが続いているようです。
「美しいものを理解する力が顕著な国」
クライマーさんは取材に、ホディンキーの初の海外版ウェブサイトを日本語でつくった理由をこう語りました。日本の熱心な腕時計の愛好家はすでに本国の英語版を閲覧しており、日本版が受け入れられる素地があるとも判断したようです。
日本はアジアの「テイストメーカー」?
とはいえ、高級腕時計の代名詞であるスイスの腕時計の輸入トップ国(輸入額)は香港です。2位は米国で3位は中国。日本はそれに次ぐ4位です。日本よりも市場が大きく、消費者の購買力も上がっている中国語圏に進出した方が、より多くの読者を獲得でき、広告もつきそうな気もします。
「香港や中国の方が需要が大きいのは確かです」とクライマーさんは言います。
「ただ、市場としての面白みがあまりない」
どういうことでしょうか。
クライマーさんによると、香港や中国の愛好家たちはオメガやロレックスなどの超有名ブランドの腕時計を好む傾向が強いそうです。
「いずれも素晴らしいブランドで、私たちの仕事の大きな部分を占めてもいます。一方で、私たちは小さなブランドも同じように大切にしています。そして日本にはそうした小さいけれどハイエンドなブランドを称賛してきた長い歴史があるのです」
クライマーさんは、日本を「アジアのテイストメーカー」とも呼びました。辞書をひくと、テイストメーカーとは「流行をつくりだす人やもの」と出てきます。
「欧州で言えばイタリアです。ネクタイにしてもジャケットにしても腕時計にしてもすごく影響力を持っている。イタリアは小さな国ですが、『スタイル』の未来を象徴しています。イタリアが欧州のコレクター文化を生み出しています。それと同じことが日本にも言えると思うのです」
アジア市場に対して、日本の消費者の腕時計の選び方が影響を与えうる。だからこそ日本を進出先に選んだ。クライマーさんはそう言いたいようです。
「若い人は店員より腕時計に詳しい」
取材に同席したホディンキー日本版編集部で編集長を務める関口優さん(36)は、クライマーさんの指摘に関連して、日本での腕時計の買われ方の変化にこう言及しました。
「ロレックスがはやった20年ほど前、高級腕時計を買っていたのは上の世代で、20代は10~20万円のエントリークラスを買うくらいでした。ところが最近は20代でも100万円以上する腕時計を買っていきます。若い世代が早いタイミングで高級品に触れるようになり、高級腕時計の購買比率に占める20代の割合は高まっています。全国の専門店に聞くと皆こうした回答をします」
こうした動きはネットの普及無しにはあり得なかったといいます。若い人たちはホディンキーのような専門サイトで腕時計に関する情報を集め、熱心に勉強をするそうです。
「かつて消費者は店員と相談して商品を買っていたが、今の若い人は店に入ったときにはもう買うものが決まっています。店員よりも腕時計に詳しいことすらあります」とクライマーさん。
関口さんも「腕時計のクオリティーやストーリーを綿密にひもといて、何がいいかをしっかり考えている。予算の制約は当然あるが、若い人たちは感銘したものによりお金を使うという選択をしているのです」と指摘します。
「若者の車離れ」「モノ消費からコト消費へ」などと言われます。しかし実際には若い人の興味・関心の細分化が進んでいるだけで、自分がほしいものをネットを駆使して突き詰めた上で、納得すれば高くても買う、という消費行動が浮かび上がります。
気になる新型コロナの影響
こうした傾向は統計にも表れています。日本時計協会によると、18年に日本が海外から輸入した機械式腕時計の数量は65万個で10年前より約33%減る一方、輸入額は1787億円で同76%増えました。単価の高い高級品の需要が増えていることがうかがえます。背景の一つに若い層の購買意欲があり、ホディンキーの日本版がメインの読者に狙っているのもこの層といえます。
スイス時計協会によると昨年、スイスの腕時計の対日輸出額は前年を約2割上回ったといいます。同協会のジャン・ダニエル・パッシェ会長は取材に「昨年は、長年にわたる日本のスイス時計の愛好が確認された年だった。訪日客が旅先の日本でスイスの腕時計を買っている影響も大きい」と分析しました。
それだけに気がかりなのは感染拡大が続く新型コロナウイルスです。腕時計市場への影響はどうなのでしょうか。
「ウイルスの影響を受けている地域では販売に陰りが見え始めている。2~3月のスイスからの輸出についても悲観的だ」(パッシェ氏)
日本でも新型コロナに絡んで百貨店の売り上げの大幅な落ち込みなどが発表されています。ただ、ホディンキーとしては若い人を中心に腕時計への本質的な需要は根強いとみているようで、昨秋に発表した日本版の雑誌の刊行も予定通り年内に行う構えです。
「古い車は腕時計に似ている」
ホディンキーが米国で発行している雑誌は写真を多用し、「腕時計のあるライフスタイル」を伝えることに重きを置いているといいます。日本版もこれにならい、単なる腕時計の紹介雑誌にはしない方針です。
クライマーさんは「10年後も共感できるものを日本でつくれたらいい」と話します。ウェブと紙媒体でどこまで日本の腕時計愛好家の関心を引きつけられるか、注目されます。
クライマーさん自身も熱烈な腕時計愛好家で、200本以上の腕時計を収集してきたといいます。取材の最後に趣味を尋ねると、「古いポルシェに乗ってニューヨークを抜けだし、郊外を一人でドライブするのが大切な時間です」と話しました。
「古い車は腕時計に似ています。マニュアルで、たまに動かないことがある。そして高価だ」と笑うクライマーさん。
「でも、どちらもとても愛情を注げるものです」