前回紹介したニューヨークタイムズの記事によれば、iPhone用の強化ガラスを生産したのは、161年の歴史を持つアメリカのコーニング社だ。
同社で生産されるのは大きなマザーガラスだから、これを小さなiPhoneに組み込むには、画面のサイズに合わせて正確にカットする必要がある。ところが、これは技術的に極めて難しい作業だ(そのため、携帯電話ではガラスを用いていなかった)。そして、広大な工場施設と、多数のミドルレベルの技術者が必要になる。アメリカでそれをやろうとすると、大変なコストがかかる。
この難問をアップルが検討していたところに、中国の工場から生産の提案が届いた。早速アップルの担当者が現地に視察に出向くと、すでに新しい工場棟が建築中だった。倉庫には試作品の山があった。工場には寮があり、エンジニアを24時間使える体制が出来ていた。
「もし注文をくださるなら、この工場で直ちに生産します」。ここがガラスカッティング工場に選定されたことは、いうまでもない。
その工場から車で8時間ドライブすると、「フォックスコンシティ」と人々が呼ぶ場所に着く。ここは、28万人の労働者がiPhoneの組立を行うフォックスコンの工場だ。彼らは、週6日、1日12時間働く。1日当たりの給与は17ドル(約1360円)程度だ。
「カッティングされた最初のガラスが真夜中に到着し、それを用いた組立作業のため、8000人の従業員がたたき起こされた」と、前回の連載で述べたのは、この工場だ。なお、ニューヨークタイムズに対して、フォックスコン側は、「厳しい就業規則があるから、真夜中に従業員を起こすことなどありえない」としている。しかし、インタビューを受けた従業員は、このエピソードは事実だと述べたそうだ。
エピソードの真偽や、就業体制の是非は別問題として、アメリカ国内はもとより、世界のどこでも絶対に得られない生産体制が中国に存在することは、事実である。状況に応じて柔軟に生産量を調整できる工場が存在すること、単純労働者だけでなく、ミドルレベルの技術者を多数獲得できることが重要な条件だと、アップルの担当者は述べている。
iPhoneの生産が中国で行われていることは広く知られているが、多くの人は、「安価で勤勉な労働力が得られるから中国生産が選択される」と考えている。そうした側面があることは事実だが、より広範な生産体制の存在が重要なのだ。
■サプライチェーンでは距離が問題になる
アップルからの注文を受けたことで、コーニングのケンタッキー工場の生産は増加した。スマートフォンが成功し、他社もアップルと同様にガラスのタッチパネルを採用したので、アップル以外からも注文が来るようになった。しかし、コーニング社による生産の大部分は、ケンタッキー工場ではなく、日本や台湾にあるコーニングの工場で行われた。
その理由は、ケンタッキーでは、後工程を担当する中国工場との距離が遠すぎることだ。アメリカから出荷すると、船便では中国に着くまでに35日かかる。航空便ではコストが10倍もかかってしまう。つまり、太平洋の広さが問題になるのである。
日本は、中国という大組立工場の近くだから部品を供給できたことになる。この点は十分認識すべきだ。
多くの人は、日本の利点は、中国という大消費地の近くに位置していることだと思っている。しかし、それを利用して中国に最終消費財を日本から供給しても、利益のあがる事業になるとは思えない。より重要なのは、中国の工場に部品や機械を供給することなのである。
考えてみれば当然のことだが、サプライチェーンを構成する工場は、ある程度以内の距離にあることが必要だ。前回示した地図で「中央日本工業地帯」とも言うべき地帯が赤色(製造業雇用者比率が20%以上)で浮かび上がっているが、これは、「トヨタを初めとする東海地域の自動車産業に部品を供給する地域だ」と考えると、理解しやすい。組立工場と高速道路で結ばれているからこそ、ジャストインタイムが実現できるのである。コールセンターが海外に立地する様子を見ていると、21世紀型のグローバライゼーションは立地に束縛されないように思える。しかし、それは情報だからだ。物流の場合には、当然のことながら、物理的距離が重要になるのである。
ところで、日本の自動車産業も、最終組立工程は、すでに、多くが海外に移転している。いずれ、組立の大部分が海外で行われるようになるだろう。そうなると、部品生産も海外に移転せざるを得なくなる。製造業の雇用者比率が高い地域から、工場がなくなっていくのだ。これによる地域経済の疲弊は、これから日本が取り組まなければならない大問題である。
■製造業を呼び戻せば赤字になる
アメリカでは、大統領選を控え、製造業向けのキャンペーンが盛んに行われている。オバマ大統領だけでなく、共和党も法人税減税を提案している。しかし、法人税を減税するだけで、アメリカに製造業が戻るはずがない。なぜなら、すでに述べたように、製造業の立地は、経済全体の問題だからだ。特に、ミドルレベルのエンジニアなどの、人的な資源が重要だ。しかし、アメリカはそうした資源を失ってすでに40年経つ。
無理して体制を整えたとしても、アメリカの高賃金で中国の低賃金と張り合えば、企業の利益は低下する。だから、製造業を呼び戻そうという政策は、実際の効果を期待したものでなく、大統領選挙用の政治的なメッセージに過ぎないのだ。
日本でも条件は同じである。ところが、2003~07年頃の日本では、円安を背景として国内生産の有利性が回復し、「生産の国内回帰」とも呼べる現象が起きた。
日本政策投資銀行の資料によると、テレビはすでに1987年頃に海外生産が国内生産を上回り、94年に輸入が輸出を上回っていた。ところが、03年頃から薄型テレビの国内生産が増大し、09年には海外生産4200万台程度に対して国内生産が半分近くのレベルに達した。
図に示すのは、製造業の大企業(資本金10億円以上)の国内設備投資伸び率の推移である。01年度以降はマイナスの伸びが続いていたが、03年度から06年度まで、10%を超える高い伸びを示している。04、05年度は、15%台の高い伸び率だ。
この時期に投資がなされた新鋭工場として、09年に操業開始したシャープの堺工場、10年4月に稼働したパナソニックの姫路工場、トヨタの小倉工場、キヤノンの大分工場などがある。
しかし、液晶テレビの場合には、国内工場が赤字の原因になった。国内回帰は、円安だけでなく、「薄型テレビは高度の技術を要するので国内生産が競争力を持つ」との判断に基づくものだった。しかし、そうではなかったのだ。中国や韓国での生産が増大し、製品価格の著しい下落に直面することになった。自動車の場合も、積極的に海外生産を進展させた日産自動車が業績を伸ばす半面で、国内生産にこだわったトヨタが立ち後れることになった。
野口悠紀雄(のぐち・ゆきお)
早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授■1940年東京生まれ。63年東京大学工学部卒業、64年大蔵省(現財務省)入省。72年米イェール大学経済学博士号取得。一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授などを経て、2005年4月より現職。専攻はファイナンス理論、日本経済論。著書は『金融危機の本質は何か』、『「超」整理法』、『1940体制』など多数。
(週刊東洋経済2012年3月17日号)
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