藤野裕さん、三浦皓子さん(宮城県東松島市)から隆雄さんへ
宮城県東松島市の医師藤野裕さん(72)は、東日本大震災の津波で、野蒜地区で医院を開業していた父隆雄さん=当時(84)=を亡くした。避難した旧野蒜小で津波にのまれたとみられる。震災発生から5日後、小学校敷地内に折り重なった車の中で見つかった。
厳しくも優しかった父、最期まで地域のために
あの日、裕さんは東松島市矢本地区にあった医院で患者を診ていた。津波の被害は免れたが、院内は医療器具が散乱、電気などのライフラインが止まった。30、40人の患者がおり、混乱する中で対応に追われた。
隆雄さんの医院は野蒜地区にあり、津波で全壊。遺体が見つかったのは、旧野蒜小の校舎と体育館のはざまに積み重なった病院の送迎車の中だった。最期まで地域に根差し、患者のための医療を貫いた。
石巻市雄勝町出身の隆雄さんは1960年、当時無医地区だった野蒜に内科医院を構えた。開院後すぐ、遠方で通えない患者のため、車1台で送迎サービスを始めた。当時としては先進的な取り組みだった。
酒を一切飲まず、夜中でも連絡があれば往診に駆けつけた。「父は厳しくも優しかった」。患者から喜ばれる父の背中を見て育った。医師になろうと思ったのは自然の流れだった。
裕さんの長女三浦皓子さん(38)の記憶に残る祖父の姿はいつも笑顔だ。大好きな甘いケーキやアイスを食べ、他愛もない話をするのが楽しみだった。皓子さんも祖父、父と同じ道を歩むと決めた。
震災から1週間後の18日、皓子さんは医師国家試験に合格した。裕さんが皓子さんからの電話を受けたのは、隆雄さんを火葬に付すため宮城県大和町に向かう車の中だった。裕さんは「うれしかった。父が生きているうちに知らせたかった」と振り返る。
祖父の大きさ感じる日々
2人の医師の思いは震災から10年後、隆雄さんが生涯をささげた地で重なる。「父が守ってきた灯を消したくない」と裕さん。2021年1月、親子で「野蒜ケ丘痛みのクリニック」を開いた。
裕さんの整形外科に、皓子さんが専門とする「痛み」を緩和するペインクリニックを診察科目に加えた。医院が立つのは、野蒜地区の住民が多く移り住んだ高台の新しい街だ。
患者からは「隆雄さんに診てもらった」と声をかけられる。皓子さんはうれしさとともに、祖父の大きさを感じる日々だ。「どこかで見守ってくれている」と気が引き締まる。
「患者さんのためには労を惜しむな」。裕さんは隆雄さんが口にしていた言葉をかみしめる。「安心してくれ。娘と2人、野蒜の地で頑張っているよ」(石巻総局・山老美桜)