電子マネー文化の先駆け「Suica」に立ちはだかる“時代遅れ”という壁

首都圏に住む人の中には「初めて利用した電子マネーはSuica」という人は多いだろう。高い利便性により多くの利用者を獲得したSuicaだが、ここ数年はクレカのタッチ決済やQRコード決済が台頭しており、シェアを大きく奪われている状況だ。はたして交通系電子マネーに未来はあるのだろうか?本稿は、枝久保達也『JR東日本 脱・鉄道の成長戦略』(KAWADE夢新書)の一部を抜粋・編集したものです。

電子マネーの先駆け「Suica」にJR東日本の元会長は懐疑的だった

 Suicaは日本に電子マネー文化を定着させた点でも偉大な発明だった。「Suica電子マネー」は2001年11月のSuica導入から2年半後、2004年3月に「Suicaによるショッピングサービス」としてスタートした。

 当初は64駅196店舗の限定的な展開だったが、同年4月から一部のキヨスクも対応した。

 Suica開発の中心を担った椎橋章夫氏は2008年、野村総研インタビューに対し、「当時(1990年代末頃)を振り返ると、香港でOctopusが電子マネーとしてだいぶ使われていました。

 日本でも、新宿や渋谷でVISAキャッシュですとかスーパーキャッシュなど、いろんな電子マネーの実証実験が行なわれていたので、基本的に電子マネーとしての展開は頭のなかにありました」と語っている。

 実際、椎橋氏はSuicaのネーミングと導入スケジュール発表直後の1999年末、ICカード利用拡大の方向性について「利用者の範囲は鉄道利用からもうひとつ拡大して、JR東日本だけでなくグループ会社全体を含めたキャッシュレス化が進む可能性がある」と述べている。

 とはいえ、進める側も「電子マネーがどういうものなのか、よくわかっていなかった」のが実情で、社内にも慎重論、反対論は少なくなかった。

 たとえば、JR東日本副社長・会長を務めた山之内秀一郎氏は2008年の著書『JRはなぜ変われたか』で、「私はこの機能には懐疑的だった。それまで銀行などが一部で試行していたが、まったく普及していなかったし、小銭入れで十分だと思っていた」と告白している。

 椎橋氏や山之内氏が言及するように、電子マネーの研究開発は銀行・クレジット業界を中心に1980年代から行なわれていたが、普及に至らなかった最大のハードルは技術面以上に、「電子マネーとは何ぞや」の理解が追いつかなかったことにある。

 いつどこで使うものなのか、なぜ電子でなければならないのか、クレジットカードとは違うのか、利用者はもちろん開発者にもはっきりとした活用のイメージがなかったのではないだろうか。

IT・Suica事業が生み出す営業利益は約162億円に

 Suicaとともに電子マネー黎明期を牽引したのが、奇くしくもSuicaと同じ2001年11月に誕生した「Edy(現・楽天Edy)」だ。

 日本初の本格的電子マネーであり、2003年にANAと提携してマイル経済圏に組みこまれたことで大きな注目を集めた。

 ただ、Edyは電子マネーである利点や明確な利用スタイルを示すことができず、赤字体質を脱することができないまま、2009年に楽天グループの傘下に入った。

 これに対してSuicaは首都圏の鉄道利用者なら誰でも持っているうえ、常に一定額がチャージされている。電車に乗る前のわずかな時間でも小銭を出さずに買い物できるという便利体験は、まさに百聞は一見に如かず、だ。

 2005年6月の電子マネー対応店舗は約1000店舗だったが、翌2006年6月には約6700店舗と、急速に加盟店開拓が進んだ。2007年にはタクシー大手の国際自動車、日本交通がSuicaに加盟。

 2008年にはJR西日本のICカードICOCAと電子マネー相互利用を開始し、首都圏だけでなく関西圏でも電子マネーが利用できるようになった。

 サービス開始から10年後の2014年7月末には約26万店、2022年度末に約163万店にまで達しており、2023年度の電子マネー利用件数は月平均で約3億件だ。JR東日本は2027年度に約6億件まで引き上げる数値目標を掲げている。

 加盟店と利用額が増えるにつれて、手数料収入も存在感を増してくる。2023年度のIT・Suica事業の営業収益は約616億円、営業利益は約162億円。クレジットカード事業も含む数字だが、乗車券として開発されたSuicaがここまでの波及効果を生み出したのは先見の明があったというしかない。

 2006年にモバイルSuicaが誕生し、駅に行かなくてもチャージが可能になったことで、電子マネーとしての利用の幅が広がった。

 ビューカードでチャージすれば1.5%のポイントがつくことも手伝って、モバイルSuica利用者はカード型Suicaの利用者と比べて、電子マネーの利用回数が多い傾向にあるという。

大手コンビニより3年早くセルフレジを導入

 もうひとつ先駆的といえるのは、キャッシュレス化によるセルフレジの導入だ。

 近年ではさまざまな店舗で導入が進んでいるが、日本で初めてセルフレジが導入されたのは2003年、大手コンビニチェーンではローソンの2010年が最初だという。これに対してJR東日本がNewDaysに導入したのは2007年とかなり早い。

 朝の通勤時間帯はどうしても混雑し、会計待ちの列が店舗の外まで延びることも珍しくない。待たされる人はイライラし、行列を見て入店を諦める人も多かった。

 そこで釣り銭が発生しないSuicaを活用したセルフレジを導入し、会計時間の大幅な短縮を図ったのだ。

 実際には利用率が伸びず、早々に撤去した店舗もあったようだが、これも駅利用者のほぼすべてがSuicaを持っているから成り立つチャレンジだった。

QRコード決済の台頭により電子マネーの決済額が頭打ちに

 一方で課題もある。電子マネーでは圧倒的な存在感を誇っていたSuicaだが、2019年頃からPayPayなどのQRコード決済が急速に普及し、決済額は2022年に逆転した。その後も伸び続けるQRコードに対し、電子マネーの決済額はここ数年頭打ちでもある。

 Suicaはあくまでも鉄道利用が主で、電子マネーは附帯サービスの位置付けであり、システムの都合上、チャージ残高の上限が2万円と少ない。

 一方、PayPayは個人間送金やグループ支払いなど柔軟なサービスを提供しており、Suicaはキャッシュレス決済手段としての魅力に劣る。

 駅構内の売店、コンビニなど1分1秒を争う店舗であれば、QRコードを表示して読みこませるより、タッチするだけで完結するICカードが有利だが、QRコード決済は個人店にも広く普及しており、JR東日本経済圏をマチナカに広げていくうえではネックとなる。とくにICカード普及率の低い地方では太刀打ちできない。

クレジットカードのタッチ決済にSuicaは太刀打ちできるのか

 また近年では、クレジットカードを直接タッチして支払う「オープンループ」と呼ばれる決済手段が交通業界にも広がりつつある。関西の主要な鉄道事業者は関西万博を見据えて2025年春までに導入を完了する予定である。関東の大手私鉄でも実証実験が行なわれている。

 Suicaは事前にチャージして使うプリペイド型だが、クレジットカードのタッチ決済は後払いのポストペイ型だ。Suicaで鉄道を利用した場合、一旦は通常の運賃を支払い、後でまとめて乗車ポイント、リピートポイントなどが還元される仕組みだ。

 これに対してタッチ決済は、使用履歴を集計して割引後の金額で請求するため、利用額が一日乗車券の金額を超えた分は請求しないなどの柔軟な対応が可能だ。

『JR東日本 脱・鉄道の成長戦略』(KAWADE夢新書)
枝久保達也 著

 もともと決済額ベースでは、キャッシュレス決済の8割以上がクレジットカードだ。Suicaが電子マネーを定着させたのと同じ構図で、手持ちのカードをそのまま使えるタッチ決済は今後の主流になる可能性が高い。とくに訪日外国人旅行者にとっては、手持ちのカードで完結するメリットは計り知れない。

 JR東日本はタッチ決済には「我関せず」の態度を貫いているが、センターサーバー式新型Suicaはクレジットカードに近いシステムであり、Suicaに欠けた機能を強化すればするほど、サービスはタッチ決済に近づいていく。

 クレジットカード大手と直接対決になったとき、加盟店開拓などは百戦錬磨の彼らに到底太刀打ちできず、難しい舵取りを迫られることになるだろう。最悪の場合、JR東日本はユーザーのニーズに対応できない、タッチ決済の“孤島”にもなりかねない。

枝久保達也:鉄道ジャーナリスト

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