最近、パンの話題を見聞きすることが多い。紹介されるパンの種類は違っても、パンへの熱い視線は変わらない。「パンブーム」の背景には何があるのか。ブレッドジャーナリストの清水美穂子さんにリポートしてもらう。
魅力的なパンは人を呼ぶ。テレビや雑誌などのメディアでは頻繁にパンの特集が組まれ、行列のできる人気店が話題になっている。新しい商業施設の入り口付近には人気パン店が誘致され、週末ごとにどこかでフェスが開催され、大勢の人で賑(にぎ)わいをみせる。
でも、これがパンブームなのだろうか? 一括(くく)りにパンブームと呼ぶのは安易すぎると思う。ブームとは一時的な流行のことだが、パンを取り巻くこうした動きは少なくとも20年近く続いているからだ。
総務省の2011年度の家計調査では、一般家庭におけるパンへの支出額が初めてコメへのそれを上回った。これは当時、大きなニュースとして取り上げられたが、冷静に見ればこのデータには、コンビニエンスストアなどの弁当やおにぎりに使用されるコメはカウントされていない。調査結果が表しているのは、日本人がかつてのように家庭でコメを炊かなくなった、という事実であって、主食がパンに取って代わったわけではなかった。ただ、家計のパンへの支出は近年、確かに増えているとみられる。
製粉協会(東京都中央区)と製粉振興会(同)が2010年と11年に実施した「小麦食品にかかわる生活者調査」では食パンをほぼ毎日食べると答えた人が中高年に多かった。
日本人のパン食の原体験として無視できないのが、1950年代から70年代半ばの学校給食の存在だ。戦後の食糧難の時代に始まった給食の記憶がどのようであったにせよ、現在の中高年のパン食率の高さに影響を及ぼしていることは間違いない。
ここで、最近人気のパンのトレンドを少し紐(ひも)解いてみたい。主役は高級なパンだ。
これまでは、パンはどちらかといえば外国のものだったかもしれない。その外国にはない日本独自のパンが今、見直されている。代表的なのは高級食パンだ。
昨今の食パン専門店ブームの火つけ役は、銀座の「セントル ザ・ベーカリー」だ。商品は国産の超強力小麦「ゆめちから」など厳選された小麦粉で焼かれる食パン3種類のみで、1日に約1200本以上を売り上げる。北海道は美瑛の(バターをつくるときにできる)脱脂乳を水の代わりに用いたミルキーな甘みのある角食パン「JP」(2斤800円)は、手間と時間をかけてパンの食感や香りをよくする湯種(ゆだね)液種製法でつくられていて、ふんわりもっちりとした食感も魅力だ。
そもそも食パンは、スーパーの大量生産品の安売りが消費者の価格基準となっているため、窯の占有時間が長いわりに価格を抑えなければ売れず、作り手にとっては手間に比べて利益の少ない“お荷物商品”とされてきた。
しかし「セントル」の食パンで、一般的には「高い」とされる価格だとしても、品質に見合った適正価格であれば成功することが証明され、専門店が次々に誕生することとなった。全国にチェーン展開する「焼きたて食パン専門店 一本堂」は、10月末で110店舗を超す勢いである。
総菜パンや菓子パンのように、昔なじみの日本のパンを、上質な国産素材を主体に、大量生産ではなく職人の手づくりで、今風に再構築するのも最近のトレンドだ。
渋谷・代々木八幡の「365日」では、ハムやベーコン、ジャムや餡(あん)などの副素材を自家製にするのはもちろんのこと、小麦粉をはじめ、有機農法や在来種の野菜や果物など、産地や生産者限定の農産物を用いる。パンを作ることや買うことが、良いものづくりをする生産者や産地を応援することに繋(つな)がるので、消費行動に新たな意味が生まれる。
こうしたことは、意識の高い消費者の間で、今後大きなムーブメントとなっていくことは間違いないだろう。
高級パンの中には、手に入れるために限られた曜日と時間に、(もしかしたら電車を乗り継いで)出向き、並んで買わなければならないパンもある。少量生産ゆえに、苦労してたどり着いても売り切れてしまっていることもあるかもしれない。それでも、そういったパンからは、店主や作り手の「顔」がはっきりと見える。さらにもっと先、農家や土地の風景まで見えるかもしれない。
パンは海外から上陸するも、日本独自の食文化として根付き、広く愛される、いわば「カレーライス」のような存在になったのではないだろうか。そして、人々の日常に寄り添いながら少しずつ、おいしい進化を続けていくのだ。
学校給食で画一的にパンが供給された時代から半世紀を経て、日常の食事としてのパンは多様化し、美食化した。つまり、おいしく健康的に楽しむものになり、熟練した職人の高度な技術や勘が必要とされるパンや、上質な素材を用いた高級なパンを選ぶこともできる時代になった。人口に比例して、特に都市部で、そうしたこだわりを持ってパンを焼く個人店が数多く誕生し、増加しているようにも感じられる。しかし、同時に多くの店が廃業していることは意外に知られていない。
総務省統計局の事業所に関する集計によれば、2016年、パン・菓子製造業の新規開業は、東京都で58店舗、廃業は111店舗に上った。パン食人口が多いといわれている兵庫県で新規26店舗に対して、廃業56店舗、京都府で新規28店舗、廃業41店舗と廃業が大幅に上回っている。パン店は増えるどころか、少子高齢化に伴い、減少傾向にある。
パン店は減りつつあるのに、「ブーム」という言葉が乱発されるのはなぜだろう。
行列のできる人気店の経営者数人に、「最近のパンブーム」について尋ねてみると、全員が「感じない」と答えた。メディアやフェスに沸く消費者の盛り上がりとはかなり温度差がある。
では、こういった「ブーム」はメディアや消費者による「独りよがり」な現象なのかというと、そうではない。パンの歴史がある欧州の国々と異なり、日本のパンの多くは主食よりも嗜好品(しこうひん)寄りの位置づけ。にもかかわらず、安価で日常的で、老若男女を問わず、どんな人にとっても共通の話題になり得るのだ。
日本のパンは歴史も宗教性もない代わりに、どこか遊びの要素を持ち、季節感があり、趣向を凝らした新商品が続々と登場するため、人々の興味は尽きない。こうして、パンはいつでもメディアを楽しく賑わし、その度に「パンブーム」の文字が誌面や画面に躍り出るのだ。
インターネットの力も軽視できない。千葉県松戸市の人気店「パン焼き小屋ツオップ」の店主、伊原靖友さんは、ネットがもたらした変化の始まりを「はっきり覚えている」という。
「それまで光の当たらなかったパン屋のオヤジがオーナーシェフなんて呼ばれるようになったのはちょうど、ホームページで自分のパンや店について語り、お客さまに発信できるようになった頃。個性をうまく表現できる店主には注目が集まっていましたね」
ネットの掲示板やオフ会、ブログなどで、店と客の気軽な交流が可能になり、パンはただ食べるだけのモノではなくなった。
ネットの普及で、消費者は自分のこだわりを満たす情報を吟味し、感想をつぶやく。その情報はおいしそうな画像とともに光速で拡散、共有される。そうしてパンは食べ歩きというレジャーになり、サークル活動になり、休日のイベントにもなっていった。パンには誰もが楽しめる間口の広さのほかに、手頃な価格で外国の食文化や、高級レストランの美食の一端をかじることができるという魅力もある。
「いまやパンは、庶民の楽しみの一つ。私たちはお客さまの『楽しみたい』という期待に応える努力をし続けていくのみです」(伊原さん)。
情報発信のツールをインスタグラムなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に移した消費者たちは、楽しみと写真映えを狙って、新しいパンに殺到する。これが、尽きることのないパンブームの正体かもしれない。