(西田 亮介:日本大学危機管理学部教授、社会学者)
ぼんやり見始めた『羽鳥慎一 モーニングショー』
選挙前後は久しぶりにかなり忙しかった。一日いくつもの取材やコメント取り、メディア出演を受け、新聞の受け止め原稿を用意した。
筆者のように政治とメディアの研究を専門にしながら、政策全般について、選挙についてもそれなりに詳しいが、しかし政治学者ではなく社会学者であり、現代政治の評論やコメンテーターも生業とするといういまでは流石に日本のメディアでも絶滅危惧種だが、それでもお座敷がかかるというのは有り難いというほかない。
結局は「お座敷がかかってなんぼ」だからである。
首班指名も終わって第2次石破政権が発足し、およそ30年ぶりに予算委員会委員長を野党議員が獲得したことに代表されるように17の常任委員会の代表ポストのうち8つを野党に割り振り、大躍進著しい国民民主党でスキャンダルが露呈し、「103万円の壁」問題が物議を醸し出すなど、日本政界は嵐の前の静けさとはいかず、すでに来年の通常国会を控えて前哨戦の模様である。
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しかし自分の身でいえば、数週間ぶりに平穏が帰ってきたというところである。むろん学期の最中なので大学の授業はある。だがそれらは大学教員にとって、当然かつ最低限の予定された仕事に過ぎない。
そんなわけで、今週のある朝、ぼんやりとしたまま、地上波をつけ朝刊を眺めたり、メールを返信したりしながら授業の準備をしていた。繁忙期以外はよくあることといえる。なんとなく地上波をつけておくことで、「最近の地上波の雰囲気」を見ているのである。
流れていたのはテレビ朝日系『羽鳥慎一 モーニングショー』。テーマは「103万円の壁」のようだ。
いったい誰の、なんのための情報番組か
チラと見てみると、パネルはそれなりにわかりやすくできているものの、ゲスト専門家を除くと、玉川徹らレギュラーコメンテーターたちは現状の所得税の控除と社会保険料の被扶養者などを混同するなど、あまり正確ともいえない「自説」をやたら早口で開陳しているが、最初からよほど一生懸命見ているような場合を除いて内容はほとんど視聴者の記憶に残らないだろう。
むろん誰しもが知るように、昔からこういう番組だった。それどころかそれこそがウリともいえるし、教養番組の週間視聴率ランキング上位番組の常連であり、時間帯ではトップ争いを常に繰り広げている。
番組内のコーナーは変わったし、コメンテーターや進行する放送局のアナウンサーも変わっているが、羽鳥慎一が2015年に引き継いだのがもっとも大きな変化だったのではないか。
十年一日のごとくである。
何も当該番組に限らない。最近はTBS系『ラヴィット!』のようにそもそも「ニュースなし」を堂々と掲げる「情報番組」さえ登場している。「日々の買い物や食事、住まい、お出かけ情報など、暮らしが10倍楽しくなるきっかけ」を提供しているのだという。
放送法で規律されるとはいえ、放送事業が民業であることから、各事業者が好きにすればよいのだが、いったい誰のために、なんのために放送しているのだろうか。
伝統的なマスメディアは日増しにマス性が自明でなくなるとともに、実質的にパーソナルな媒体になっている。もっともわかりやすいのがかつての代表的マスメディアであったラジオであろう。
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ラジオは「マスメディア」でなくなり、新聞も…
いま、ラジオを「マスメディア」と認識する人は多くはないはずだ。実際、平日の行為時間が若年世代ではゼロに近づいている。デジタル化でラジオが変わったというナラティブは存在するが、基本的に売上が堅調に伸びているようなラジオ局はほとんどない。
podcastやvoicyのようなサービスが日本でも普及し、収益化も進んでいるが、かといって伝統的なマスメディアの規模を支えられる存在とはいえない。
ラジオ業界の広告費は2010年代半ばピークに減少傾向に歯止めが利かない状況である。取材も限定的になり、制作費も減少し、良くも悪くももっぱらパーソナリティのトークや個性を目当てに視聴する媒体となっている。
もはや、ラジオをマスメディアだと認識する人は業界や専門家を除くと、それほど多くはないだろう。
新聞もそうだ。日本新聞協会の調べによれば、2023年にはじめて新聞の1世帯あたり部数が0.5を割り込み0.49となった。
◎日本新聞協会「新聞の発行部数と世帯数の推移」
この数字の意味するところは大きい。1世帯あたり部数がはじめて1を割ったのは、2008年のこと。換言すれば、それまでは平均すると1世帯あたり1部を超えていたということを意味するから、新聞はとんでもなく大きな力を持っていたといえる。
その頃、筆者はといえば満員電車で虎ノ門の職場まで都内でも屈指の混雑路線で1時間半近い通勤時間をかけて通勤していたが、満員電車の社内にはまだ新聞を器用に三つ折りにして新聞を読む客が多数いた。
要はさしあたり新聞に目を通しておくのが社会人としてのマナーだったが、現在ではめっきり見かけなくなった。
驚くほど無策のままに過ぎ去った2010年代
1世帯あたり部数が1を割ってからも長く0.9〜0.8程度で推移していたわけだから新聞購読世帯は多数派だった。新聞は確かにマスメディアといえたはずだ。
再び落ち込み始めるのは、2010年代半ば以後のことである。1世帯当たり部数が0.5を下回るということは新聞購読世帯が少数派に転じたということを意味する。現代において、なぜ新聞はマスメディアといえるのだろうか?
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世界と全国に独自の支局網を持つ全国紙についていえば、かろうじて世界と全国の確度の高い「ニュース」を地方に、地方の「ニュース」を全国に届けるという意味においてマスメディアと呼べるのかもしれない。
しかし新聞発行部数の減少と売上減のなかで、支局数や記者数も減少を続けている。支局数の減少程度は社によって相当異なるが、日本新聞協会の調べでは新聞業界全体の記者数は10年前と比べて75%程度まで減少している。
◎日本新聞協会「新聞・通信社従業員数と記者数の推移」
「働き方改革」も追い打ちをかける。伝統的な夜討ち朝駆けスタイルを維持できている社も減少しているというし、突発の災害報道においてさえ若手を現地に取り敢えず投入するといった「伝統的」な取材も年々難しくなっているという。
民業というのは残酷だ。働き方改革は間違いなく必要だし、記者の人権擁護も言うまでもなく必要だ。
しかしそのこととは別に、明らかにコストは高くなり稼働できる人員、影響力が減じているが、そうなればなるほどネットワーク効果はマイナスに働き、ますます購入する動機づけが乏しくなってしまう。
新聞社は名実ともにマスメディアであった2010年代に手を打つべきだったが、英『Financial Times』を買収し、デジタル化を推し進めるなど試行錯誤を続けている日本経済新聞を除くと2010年代は業界全体が驚くほど無策のままに過ぎ去ってしまった。
新聞150年の歴史をすっかり取り崩してしまった
購読者が減ってしまってからできることは少ない。近年は品質管理やコンプライアンスのためにかかるコストが過去と比べてむしろ増えているにもかかわらず、読んでいない人も含めてマスメディア不信が広がっている。
読んでいない新聞不信、見ていないメディア不信は根拠があるわけではないだけになおさら厳しい。
多数派が読んでおらず、読んだことがないのに信頼できるかできないのかもはっきりしないコンテンツに対して課金すると思えるだろうか。
少し古い話だが、コロナ禍において、人々は信頼できるデータを求めたはずだ。総務省は2020年6月に「新型コロナウイルス感染症に関する情報流通調査」という調査を公開している。
コロナ初期で多くの人が正確で、有益な情報を切実に求めた時期だ。その時期においてさえ、「新型コロナウイルスの情報やニュースを見聞きした情報媒体」「新型コロナウイルスの情報を知る際に利用する情報源やメディア・サービス」のいずれの項目でも上位に新聞が入らなくなった。
政府や放送が信頼されていることがわかる。もちろん主観である。しかし新聞は存在感を明らかに失っていることがわかる。ここからどのような反転攻勢が考えられるだろうか。
新聞社は非新聞読者とその増加を無視して業界事情をごり押ししてデジタル化に失敗し続けた結果、新聞150年の歴史が蓄積した信頼と経営の基盤をすっかり取り崩してしまったのである。
今年に入って、夕刊の休刊、廃止エリアの拡大のみならず、富山県からの撤退など全国紙の全国紙性が問われるようなニュースも相次いでいる。
現代において新聞はなぜ購読する必要があるのか、特に非新聞読者が課金する合理的理由はいかなるものか明確に再定義することが急務だが、おそらくはこれから10年程度の時間をかけてラジオと同じように、パーソナルなメディアになる途を辿ることが強く懸念される。
放送事業者の頭痛のタネ
テレビはどうか。テレビはかろうじて規模で維持しているが、在京キー局、在阪局、在名局くらいまではなんとかやりくりできている。
だが、新聞と同じく十年一日で、デジタル化が遅れている。キー局がデジタル配信をしてしまうと、ネットしている、そして番組の自主制作比率が10%程度の地方ローカル局の収益が毀損してしまうからである。
ネットで視聴すれば事足りしてしまうし、地方ローカル局のチャンネルで番組を見る必然性が低下するということは広告価値を下げることになる。
それでも背に腹は代えられないとばかりに、有力局はコンテンツがあるのでTVerをはじめデジタル化を少しずつ進めているが、コンテンツ自体を制作していない地方局の未来は暗い。
ノウハウも、制作に投資を行う体力も残されていない。売るモノ(コンテンツ)がないメディア企業はいったいどんなビジネスで売上を立てていくというのだろうか。
一般には認識されていないが、将来的な系列関係の再編や統廃合を視野に入れているというほかないマスコミ集中排除原則の緩和などがひっそりと進められている。
ただでさえ厳しいメディア、マスコミ業界だが、報道はそのなかでも端的にコスト部門とされる。支局網を維持し、社員を育成し、貼り付け、コンテンツもそれほど人気があるとはいえない。
冒頭に戻るが、最近では「ニュースがない」ことが「目玉」とされる情報番組が評判になるくらいなのだから。
それでも放送事業者にとって頭痛のタネとなるのは、コスト部門であることは明らかながら、事業の公共性の主たる源泉となっているのはやはり報道なのである。
放送が通常の事業と異なるのは、放送波の独占と許認可事業であることから放送の公共性への配慮が求められる点だ。
仮に放送事業者が報道を手放す日が来たとして、法理論的にはさておくとして、多くの人が文化や娯楽を提供するだけで放送事業者が公共的な役割を果たしていると腹落ちできるだろうか。かなり難しいのではないか。
メディア不信とニュース離れはいつ訪れるか
冒頭に言及したが、十年一日とはよく言えばの話である。世界で見られる新しい放送表現なども日本ではとんと目にしない。
米大統領選挙のテレビ討論会で見られるようなリアルタイム・ファクトチェックは、前回2020年バイデンvsトランプの大統領選挙や2016年トランプvsヒラリー・クリントンは言うに及ばず、オバマの大統領選挙の頃にはインターネットで実施されていた。
2024年米大統領選でのCNNテレビ討論会の様子(写真:Gripas Yuri/ABACA/共同通信イメージズ)
日本でも政党や政治家のネット活用は2013年の公選法改正による広範なインターネット選挙運動の導入以来、活発化するばかりである。
SNSの利活用や最近ではYouTubeやInstagram、TikTokの活用が盛んだ。だが、メディアが主役のはずの討論会で、こうした新しい報道や手法を見かけたことがあるだろうか?
日本のメディアは旧態依然として、国内でも権力監視の対象である政治がデジタル化を推し進めているのに対して、すっかり置いていかれてしまったのである。
管見の限り、大変お粗末な状況だ。もちろん日本の場合、放送法で政治的中立性を要請されていることは理解しているし、それに対してアメリカでは1987年に同じ主旨を持つ公正原則が撤廃されている。
規制上の彼我の差は明らかだが、それではネットメディアを含めて一向に日本で取り入れられないのはなぜか。2016年に遡るとしても8年近い年月が流れたことになるが、海の向こうの流行が日本にやってこなくなったように感じる。
もちろん答えは一意に定まらない。制作費も増えないまま、人手も不足しているだけに現場の責任ということも難しいだろうし、年々高齢化する視聴者自身すら伝統的な表現を好むのかもしれない。
誰のせいでもないし、できることもそれほどないだろう。
だが、そうこうするうちに、新聞だけではなく若年世代のメディア接触傾向は明確にテレビ離れを示している。2020年代も特に打ち手がないまま日本においても世界と同じように、メディア不信とニュース離れが案外早い時期に訪れるか、すでに訪れているのかもしれないなどということを思った。
ポピュリズム的な現象や既存政党不信が広がるが、奇妙なまでに世界の状況と符合する。ニュース離れの世界の混乱と分断を想起することは容易だが、日本のメディアは、世界と同じ途を辿らない、容易ではない選択ができるだろうか。