<東北の道しるべ>「通訳者」漁村と都会結ぶ 一方通行から相互交流へ

東日本大震災と東京電力福島第1原発事故をきっかけに、東北の漁業者と都会の消費者による新しい関係づくりが進む。販路減少に苦しむホヤ漁師に代わり消費者と産地をつなぐ支援団体、安全で新鮮な魚を手に都会に出向いて消費者に語り掛ける漁師、環境負荷が少ないカキの養殖を始めた浜…。自然の豊かさと厳しさを知る「通訳者」たちの奮闘が、漁村と都会の関係を一方通行から相互交流へと変えていく。

◎浜の声代弁 女性や若者に/よそ者視点でツアー・PR ほやほや学会(石巻)

自宅のある埼玉県川口市から、石巻市と宮城県女川町に足しげく通う。
ホヤの消費拡大を目指す団体「ほやほや学会」(石巻市)の田山圭子会長は、被災地が主産地のホヤを復興の要と位置付ける。
「国内生産量の7割が宮城。これほど可能性を秘めた食材はない」
田山会長の本職は、一般社団法人ピースボートセンターいしのまきの職員。主に首都圏で業務に当たっている。「腰を据えて被災地を支援したい」と2012年1月、東京のコンサルタント会社から転じた。
ほやほや学会は14年に結成した。宮城の生産量の7割を輸出していた韓国が禁輸し、被災地で復活した養殖ホヤは最大の販路を失った。「浜の窮地を何とかしよう」との思いだった。
主要メンバーは地元のホヤ漁師、加工業者、首都圏のホヤ愛好家ら10人。交流サイトのフェイスブックで「いいね」を押すと入会できる「学会員」は2800人を超える。
14年夏、ホヤ漁師と首都圏の消費者をつなぐ「女川ほやほやツアー」を始めた。「ホヤで人は呼べない」との地元の予想を覆し、目標の2倍となる40人余りを集めた。
ツアーは年1回、旬の7、8月に実施する。船上試食や浜ごとのホヤを味比べする「利きホヤ」など、ホヤずくめの内容が評判を呼んで毎年定員が埋まる。
「一番おいしいホヤは現地の船の上。鮮度落ちが早いホヤの弱みは、被災地に人を呼ぶ強みにもなる」と田山会長は話す。
地元のホヤ漁師の信頼も厚く、石巻市雄勝町の伊藤浩光さん(57)は「漁師よりもホヤを知っている」と一目置く。
田山会長は仙台市青葉区の勾当台公園で3日にあった消費拡大イベント「ほや祭り2018」で、ほやほや学会のブースに立った。水槽に入ったホヤの前で、お客に生態や食べ方などを丁寧に説明した。
イベント実行委を構成する宮城県漁協の小野秀悦代表理事は当初、ほやほや学会と距離を置いていた。だが今では「組合が接点のなかった女性や若者にホヤを広め、消費を増やしている」と感謝する。
「よその人間だから、ホヤ漁師のすごさや地元の人が気付かないホヤの魅力に気付き代弁できる」。田山会長は、ホヤが枝豆級の居酒屋メニューになるまで、ファン拡大に力を尽くすと心に誓っている。

◎顔見える関係 心をつかむ/消費者と会話「ご近所化」 漁師・菊地基文さん(相馬)

大型連休谷間の1日朝、相馬市の松川浦漁港に、試験操業を終えた漁船が次々と帰港した。
底引き網漁船「清昭丸」船主の菊地基文さん(41)は接岸後、手際よくヒラメやアナゴを陸揚げした。
大学を卒業した1999年、曽祖父から続く漁師を継いだ。震災前は週6日、漁に出ていた。水揚げした魚の8割は築地に運ばれ、どれも高値で売れた。
「価格も魚の行き先も仲買人任せだった。漁以外を自分事として考えていなかった」
大震災と原発事故は、浜の日常を一変させた。震災の翌年に試験操業を再開したが、風評被害で魚の値も戻らない。
転機は生産者の記事と手掛けた食材をセットにした情報誌「東北食べる通信」だった。菊地さんは2013年9月号で特集された。
提供食材は、根魚のドンコの身と肝をたたいたつみれ「どんこボール」。しかし、荒天などで肝心のドンコが調達できず、配送が遅れてしまった。
会員からの抗議やクレームを覚悟しつつ、交流サイト「フェイスブック」に事情をつづった。返ってきたのは、状況に理解を示す励ましのメッセージだった。
「直接ちゃんと説明すれば伝わる。顔の見えない売り買いだけの関係よりもずっと強くなる」。ご近所のように気兼ねせず話せる食べ手を増やそうと決めた。
15年秋、同世代の地元仲間と季刊「そうま食べる通信」を創刊した。東京の会員に会いに行ったり、相馬に呼んだりして「ご近所化」を進めた。当初100人に満たなかった会員が、今では約220人に増えた。
「自分の魚を食べたい人が増えれば市場に左右される割合は減る。相場に気をもむことも少なくなる」と菊地さん。行動を共にする若手漁師も増えてきた。

◎品質が改善 次代の養殖へ/危機逆手にエコブランド 戸倉出張所カキ部会(宮城・南三陸)

親潮と黒潮が行き交う内陸に入り組んだ宮城県南三陸町の志津川湾。カキ、ホヤ、ワカメなどを養殖するのに恵まれた漁場だ。
カキの収穫期は、5月いっぱい。多数のカキ養殖棚が並び、漁師たちがカキを引き揚げていた。
県漁協志津川支所戸倉出張所カキ部会長の後藤清広さん(58)が見渡す。「これでも養殖棚は、震災前の3分の1になったんだ」
後藤さんが住む湾南側の戸倉地区も津波被害は免れなかった。当時、約1000台あったカキ養殖棚は全て流された。
「小粒」「実入りが悪い」。震災前、戸倉のカキに対する消費者の評価は低かった。原因は、養殖棚の密集でカキに栄養が行き届かないことだと分かっていた。でも、減らすのは容易ではなかった。
湾内に養殖棚が無くなった震災直後を、後藤さんは再生のチャンスと捉えた。「もう同じことを繰り返さない」。2011年5月、戸倉出張所のカキ養殖再建で、仲間を取りまとめる役目を強い思いで引き受けた。
震災前は10~15メートル置きだった棚を、40メートル置きに変えた。そして棚の数は3分の1まで減らした。効果はてきめん。以前は3年で成育したカキは1粒15グラム。新たな棚では、1年で1粒30~40グラムまでに育った。
16年4月、環境に配慮した養殖を後押しする水産養殖管理協議会(ASC)の国際認証を国内で初めて取得した。ブランド「戸倉っこかき」として販売され、県の平均単価を10~15%上回るまでになった。
同時期からバージンオイスターとも呼ばれる未産卵ガキの生産も始めた。1年未満で小ぶり。「あまころ牡蠣(かき)」と名付け、16年度は約10万個出荷した。仙台圏や首都圏のオイスターバーで、特に若者たちの人気を集める。
後藤さんは「環境に配慮した漁場を残すことで、次の世代につなげられる」と強調する。長男伸弥さん(33)も、父親の姿を見て養殖を手伝ってくれるようになった。津波で痛め付けられた浜に、希望が生まれた。

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