残るべきか、去るべきか。東日本大震災で津波被害を受けた宮城県南部の山元町のイチゴ農家、渡辺惣一さん(76)一家7人が揺れている。惣一さんは被災した自宅で再び暮らす日を町内の仮設住宅で待つが、職場がある仙台市に避難した長男一広さん(52)は仙台に腰を据えたい。通勤手段のJR常磐線再開が見通せず、一広さんのような現役世代は町を去りつつあり、「老人ばかりになってしまう」との声があがる。【前田洋平】
【大震災半年】仮設暮らし、積もる課題 ほころび始めた共同体
「もう、あの土地には住めねえ。危険な場所なんだ」「2階部分がしっかりと残っている。住める」
町の復興基本方針の住民説明会があった今月3日、内陸移転を促す地域に自宅周辺が指定されることを知った一広さんが切り出すと、惣一さんは反論した。津波に洗われた自宅や700坪のイチゴ畑は海から約200メートル。その周辺は、まだがれきが散乱したままだ。
町の将来像でも2人の考えはかみ合わない。「みんながいねくねったら本当に廃虚になっちまう。我が残っていれば、他の人だって住み着くかもしれねえ」と惣一さん。「電車も店もねえ。若い人はどんどんいねくねってる。(自宅にこだわるなら)ずっと家族バラバラだべ」と一広さん。結論は持ち越した。
一家は震災までは、惣一さん夫妻▽一広さん夫妻▽孫夫妻▽ひ孫--の4世代7人家族だった。一広さんと孫娘(27)の夫(33)は常磐線で仙台市へ約40分かけて通勤していた。同線が津波で不通になり一広さんと孫ら5人は4月上旬、仙台市の社宅へ。惣一さん夫妻も一時身を寄せたが、仮設住宅が建った6月中旬、2人だけ山元町に戻った。
一広さんは「仙台で部屋にこもりっきりのおやじを見るのは切なかった。イチゴも作りたいのだろう」と思いやるが、通勤が難しい以上、自身は戻れない。常磐線に関し町はJRに内陸移動を提案しているが、周辺自治体との調整が必要で、半年たっても決まっていない。着工後も最低3年はかかるという。
町震災復興有識者会議委員で、高齢者施設の建築が専門の石井敏東北工業大教授(41)は「常磐線被災で町が孤立化し、若い世代の流出は止められない。子育て世代が住みやすいよう、産婦人科を作るなどの仕掛けも必要」と提言する。だが第2子妊娠中の孫娘は放射線を恐れ、福島県と接する山元町に近寄りたがらない。惣一さんは「復興したって老人ばかり残ってしまっては……」と嘆く。